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仕組まれた巨大公共事業

鹿児島県・薩摩川内産廃処分場計画の闇

2012年3月28日 09:25

 鹿児島県(伊藤祐一郎知事)が薩摩川内市に建設を強行している産業廃棄物の管理型最終処分場「エコパークかごしま」(仮称)。建設にあたり最も必要であるはずの地元住民の同意さえ得ないまま、力ずくで事を運ぶという異常な状態が続く。
 
 さらに、この計画を進めるため、民間企業の処分場計画を握りつぶしていたことが発覚。国からその違法性を指摘されたにもかかわらず、反省すらしていない。
 法を無視してまで伊藤知事が「県営処分場」にこだわる理由は何か。
 
 改めて、処分場をめぐるこれまでの動きをまとめたが、100億円近い巨大公共事業が「仕組まれたもの」であったことが歴然となった。

唐突な県の動きの裏には・・・
 下の表に薩摩川内処分場をめぐる動きと、民間の産廃処理業者「九州北清」による処分場計画の流れを並列してまとめた。これに従って経過をたどってみる。

薩摩川内&九州北清3.JPG 県による処分場計画が急激に進み始めたのは平成18年。この年5月、唐突に県内部に「公共関与型処分場対策協議会」が設置される。公共関与型処分場の建設推進を図る会議だったというが、突然の協議会設置に違和感を覚えたとする県内部の証言がある。

 この協議会は県の環境生活部次長を会長に、庁内の幹部職員だけで組織されたもので、5月に第一回目の会議を行った後は9月に2回目を開催して終了。会議の議事録さえ残っていないが、この協議会で処分場の予定地を決めたわけではない。つまり、この協議会は、計画を進めるにあたっての"きっかけ"を作る装置でしかなかったのだ。

 その証拠に、第一回目の会議が開かれた平成18年5月15日の4日前(5月11日)には、すでに処分場候補地の調査を始めているのである。方針を決める会議の前から実務が始まること自体おかしな話で、伊藤知事がいかに慌てていたかが分かる。

 処分場計画が急に進み始めた裏には、地場ゼネコン「植村組」グループの思惑があったことも、地元薩摩川内市での取材を通じて分かってきた。
 処分場の土地を賃貸借の形で県に提供したのは「植村組」のグループ企業「ガイアテック」なのだが、平成17年頃には「植村組が川永野に産廃処分場を建設する」との話が広まっていたというのである。処分場周辺の複数の住民らが同じ話を聞いており、その後の県側の動きと符号する。
 そうなると県は、はじめからガイアテックの土地を処分場用地とする目的で事を進めた可能性が高い。

 ちなみに植村組グループは、かなり早い段階からガイアテックの土地を処分場にする計画を立てていたと見られ、周辺地域にはかなり気を使っていたことがうかがえる。
 
 ガイアテックの社名は、平成13年4月まで「川内砕石株式会社」であったが、同社は地元川永野の公民館建設に多額の寄附を行っていた。
 下は、川永野公民館の建設資金の収支報告書だが、川内砕石から700万円の寄附を受けたことが明記されている。
gennpatu 114020001.jpgのサムネール画像 
 
 gennpatu 1050.jpgのサムネール画像当時を振り返った地元関係者らは、植村組がこうした周到な地元対策をほどこし、将来の産廃処分場につなげる腹づもりだったと見ている。

 関心できないのは、「植村組」グループ企業が寄附した建設資金が、再び植村組本体に戻っていることだ。
 公民館の敷地内に建つ記念碑には、寄附した川内砕石の社名とともに施行企業が刻まれており、「植村組」となっているのである。
 公民館建設費は約1,000万円。つまり植村組は、抜け目なくグループ企業の寄附分以上の仕事を請け負ったことになる。(右の写真参照)

「調査」は薩摩川内だけだった
 話を戻すが、その後の県の動きは「はじめに植村組ありき」との推測が間違いではないことを明確に物語っている。
 上の表にもある通り、県は平成19年に処分場の「候補地」を県内4箇所に絞っておきながら、立地可能性についての調査は、薩摩川内市川永野についてのみしか実施していないのである。HUNTERが県に情報公開請求して入手した関連文書も、同所における調査に関するものしか残されていない。
 
 さらに、薩摩川内市以外の他の3箇所について、調査の必要を否定したのが伊藤知事だったとする確かな証言も残されている。

 gennpatu 114020004.jpg平成20年8月、同県いちき串木野市の高野山真言宗「冠嶽山鎭國寺頂峯院」を当時の県の担当部長が訪れている。同年8月に薩摩川内市川永野が処分場整備地に内定(正式決定は9月)したことから、整備地と関係の深い同寺に説明に来たのだという。
 
 鎭國寺がある「冠嶽山」は、徐福伝説で全国に知られた霊山である。薩摩藩時代の島津家が厚く信仰したという歴史を有しているが、処分場予定地がこの霊山の麓に位置していのである。(写真は鎭國寺の黄不動堂、背後に冠嶽山頂)

 この時、「なぜ薩摩川内市以外の候補地の立地可能性調査を行わないのか」と追及した寺側に対し、当時の部長は「知事がここ(薩摩川内市川永野)だけでいいと言ったから」と事も無げに返答したとされる。
 
 「冠嶽山」は、徐福の時代である紀元前3世紀から旧藩時代を経て今日まで、薩摩人だけでなく国内外の人たちから敬われてきた霊山である。その神聖な地を汚し、次代の子ども達から豊かな自然を奪おうとしている張本人が伊藤祐一郎という独裁知事であることを如実に示す事実だ。

民間処分場を黙殺した理由
 上の表の右側は「九州北清」による処分場計画の流れだが、薩摩川内側と見比べてみると、巨大公共事業の実現にこだわる伊藤県政の姿勢がよりハッキリと見て取れるはずだ。とくに注目すべきは平成19年から20年にかけての双方の動きである。

 県が県内の4箇所を処分場候補地に絞り込み、薩摩川内市川永野における立地可能性等調査を始めた4ヵ月後、九州北清側は県に湧水町での処分場計画を通知している。
 この時から翌20年の9月まで、県は九州北清の計画に対し適切な対応を行ない、順調に事が運んでいたことが分かる。

 しかし、同年9月に薩摩川内市川永野が正式に処分場用地に決定してから、県の態度は一変する。同社担当者との面談を断りはじめ、必要書類の受け取りという役所としての当然の義務さえ放棄したのである。
 関係者の話をもとに整理した九州北清側の記録では、同年11月に有力県議が同社会長を訪問。「知事からのメッセージ」として九州北清の処分場計画延期を持ちかけるに至る(記事参照)。

 同県議や県関係者への取材で明らかとなっているが、九州北清に計画延期を迫った理由については「薩摩川内のことがあったから」だとしており、この方針を主導したのが伊藤知事だった可能性が高い。
 知事は薩摩川内市に処分場を建設するための「県内に管理型最終処分場が一箇所もない」という大義名分を失うことを恐れ、違法を承知で九州北清の計画を握りつぶそうと画策したのである。

仕組まれたゼネコン救済に100億円の税金
 度々報じてきたが、同処分場の建設で大きな利益を得たのは地場ゼネコン「植村組」グループである(記事参照)。背景に同社の経営状況悪化があったことも見逃せない事実で、伊藤知事が薩摩川内市での公共関与型処分場の建設にこだわったのは、公費による「植村組」の救済という目的があったからではないだろうか。

 ここまで述べてきたとおり、植村組グループは早い時期からガイアテックの土地を県が建設する処分場用地にすることを企図していた可能性が高い。事実、問題の土地を処分場用地として推薦したのが当の植村組グループだったことを県側が認めている。
 
 伊藤知事の初当選は平成16年。薩摩川内市で植村組による処分場建設の噂が広まったのが同17年・・・。公共関与型の処分場計画が、翌18年5月から急速に動き出したことや、その後の強引な県の手法を考えると、「植村組救済」のシナリオが存在したという推論は、ますます現実味を帯びてくる。

 100億円近い税金が、一部の権力者によって恣意的に費消されるという現実。歪んだ県政は、結果的に鹿児島県民を苦しめることになるのだが・・・。



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