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五輪マラソン開催地問題 「アスリートファースト」の欺瞞

2019年10月31日 09:35

20130919_os01.jpg 東京オリンピックのマラソンと競歩の会場を札幌に変更する案が、30日から来月1日にかけて、IOC(国際オリンピック委員会)の調整委員会で議論される。
 競技会場の変更は、猛暑の中行われた世界陸上ドーハ大会のマラソンと競歩で、棄権者が続出したことを受けての緊急避難措置。「アスリートファースト」を大義名分に掲げたIOCは、「決まったこと」で押し通す構えだ。
 一方、「はい、そうですか」とはいかないのが東京都。多額の招致費をかけて開催地の名誉を勝ち取った上に、数百億円かけて猛暑対策を施してきたのだから当然だろう。IOCの強引な方針転換については、国民からも疑問視する声が上がる状況だ。
 どう決着するにしろ、来年に向けての盛り上がりに水を差されたのは確か。一体全体、オリンピックは、誰のためのイベントなのか――。(写真は、五輪の東京招致が決まった2013年当時の羽田空港)  

■実態は「メディアファースト」
 そもそも、「アスリートファースト」というなら真夏ではなく、初めから気候の良い秋にオリンピックを開催すべきだろう。夏にこだわったのはIOCであり、それは莫大な放送権料を払っている、主に米国を中心とするテレビ局の要請によるものだ。

 米国のNBCは、IOCに76億5,000万ドル(約8,500億円)ともいわれる莫大なカネを支払って2032年までの米国における独占放映権を獲得している。NHKと民放でつくるジャパンコンソーシアム(JC)が、東京大会を含む18年以降の五輪4大会の日本向け放送権を得るために支払ったのは1,100億円だという。IOC=五輪を支えているのがテレビ局であることは、紛れもない事実である。

 IOCに対しもっとも強力な発言権を有している米国のメディアは、スポーツイベントが少ない夏場の視聴率稼ぎのために、秋の五輪開催を受け入れていない。アスリートファーストではなく、メディアファーストが五輪の実態と言えるだろう。

 メディアが五輪を変貌させた証拠は、まだある。かつてオリンピックは「参加することに意義がある」と言われたものだ。「より速く、より高く、より強く」なるために努力することの大切さを説いた言葉だろうが、近代五輪にその理想を見ることはできない。“勝つこと”“メダルをとること”が重要視されるからだ。しかも、“銅より銀”“銀より金”が当たり前で、参加しただけの選手は国民の記憶にも残らない。原因が、選手を試合結果だけで評価するメディアの姿勢にあるのは言うまでもない。「アスリートファースト」が聞いて呆れる。

 アスリートファーストを否定する材料には事欠かない。五輪は明らかに国威発揚の舞台となっているし、「オリンピック憲章」が謳っている政治的中立にしても、とうの昔に損なわれている。1980年、旧ソ連のアフガニスタン侵攻を受け、米国、日本など50を超える国がモスクワオリンピックをボイコット。政治と五輪の不可分を証明した出来事として歴史に刻まれている。

■歪められた五輪の精神
 では、オリンピックは誰のために開催されているのか――。この疑問を解くために、改めて五輪の憲法といわれる「オリンピック憲章」を確認してみた。もっとも重要な「オリンピズムの根本原則」には、次のように記されている。

1、オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。 オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。

2、オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

3、オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは最高機関のIOCである。活動は5大陸にまたがり、偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは5つの結び合う輪である。

4、スポーツをすることは人権の1つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる。

5、オリンピック・ムーブメントにおけるスポーツ団体は、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、政治的に中立でなければならない。スポーツ団体は自律の権利と義務を持つ。自律には競技規則を自由に定め管理すること、自身の組織の構成とガバナンスについて決定すること、外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、および良好なガバナンスの原則を確実に適用する責任が含まれる。

6、このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。

7、オリンピック・ムーブメントの一員となるには、オリンピック憲章の遵守およびIOCによる承認が必要である。

 近代オリンピックの基礎を築いたクーベルタン男爵が目指したのは、身体と心をスポーツで鍛えることを通して世界各国の人と交流し、平和な社会を築いていくことだったという。これが「オリンピズム」で、オリンピズムを世界中に広めていく活動のことを「オリンピック・ムーブメント」と称している。4年に1回のオリンピックが、オリンピック・ムーブメントの頂点となる。

 スポーツで世界をつなぎ、平和を目指すという崇高な理想はすばらしいものだ。しかし、ここまで述べてきたように五輪は大きく変貌しており、オリンピック・ムーブメントは『オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動』ではなくなっているし、『個人と団体』より国家が優先される現状にあっては『政治的に中立』にしても夢物語だ。

 憲章の後段に『IOCとOCOG(大会ごとの組織委員会)は国ごとの世界ランキングを作成してはならない』とあり、その点だけは守られているが、五輪開催中のメディアは連日メダルの国別獲得数を報じるのが常だ。これもメディアが五輪を歪めている証拠の一つと言えるだろう(もっとも国別の成績にこだわる国民の側にも問題があるのだろうが……)。
 
 オリンピックの開催地決定までには、まず国内、次に世界の立候補都市間で招致合戦が繰り広げられる。都が莫大な予算をつぎ込んで、ようやく勝ち取ったのが「東京オリンピック」だ。その東京の知事が、五輪の花といわれるマラソンと競歩の会場変更という一大事の決定に際し、IOCからも組織委員会からも事前の相談がなかったというのだからおかしな話である。都民はもちろん、日本の多くの国民が釈然としないものを感じているだろう。じつはそれが、オリンピックが誰のためのイベントなのか分からなくなっているという現実の裏返しでもある。



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