今月19日の鹿児島県議会で予定される、ある県会議員の一般質問に注目が集まっている。
質問に立つのは、共産党の平良行雄議員。2016年の鹿児島県知事選挙の際、反原発派の代表として立候補表明しながら、三反園訓氏との間で原発に関する「政策合意」を結び出馬を思いとどまった人物だ。彼こそが、三反園県政誕生の最大の功労者と言える。
その平良氏は、いまや三反園知事の最大の敵。県議会質疑の行方次第で、三反園氏の政治生命が終わりを迎える可能性がある。
■三反園氏から言い出した「廃炉を前提」
2016年の鹿児島県知事選挙で三反園氏が勝利を収めたのは、反原発派との間で話し合いがまとまり、現職・伊藤祐一郎氏との選挙戦で候補者一本化が実現できたからだ。立候補表明を済ませていた平良氏が降りるにあたって担保となったのが、「政策合意」だった。
簡単に交わされた合意ではない。それぞれの支持者に押される形で、三反園-平良両陣営が協議を重ねたが、候補者一本化の話は一度破談に――。再協議を持ちかけたのは、『川内原発の停止要請と反原発派を入れた検討委の設置』を提案した三反園氏だった。
再協議の場で三反園氏は、「廃炉」を前提に「政策合意」するとした上で、平良氏ら関係者に何度も「私を信じてもらいたい」と訴えたという。生き残りをかけて必死になっていた三反園氏。「政策合意」は、平良氏らが三反園氏の言葉を信じた結果である。
■勝敗を決めた反原発派の票
2012年の鹿児島県知事選挙で、反原発派が担いだ向原祥隆氏の得票は約20万票。翌年に行われた伊藤祐一郎知事(当時)へのリコール(解職請求)で15万という署名が集まったことを考え合わせると、“反伊藤票”は、15~20万票あるとみられていた。
上から目線の県政運営で評判を落としていたとはいえ、現職・伊藤氏の壁は厚い。新人2人が出馬した場合は“反伊藤”の票が割れ、共倒れは確実だ。「何としても知事になりたい」――長年勤めたテレビ朝日を辞め、選挙にかけていた三反園氏にとって、候補者一本化こそが至上命題だったのである。
政策合意を交わして平良氏を降ろしたことで、知事選での得票は、三反園氏の426,471票に対し伊藤氏が342,239票。候補者一本化が功を奏した結果である。「脱原発」を願う有権者の票がなければ、三反園県政は誕生していなかった。
■騙された県民
「反原発の知事誕生」として全国の注目を集めた三反園氏だったが、就任直後に態度を一変させる。反原発派との連絡を断ち、平良氏側からの面会要請も無視。何回かけても電話に出ず、メールへの返信もなかったという。
政策合意の前提だとしていた「廃炉」は言葉にも出さず、平良氏らに「反原発の方々など幅広い人に入ってもらう」と確約した「鹿児島県原子力安全・避難計画防災専門委員会」(合意書では『原子力問題検討委員会』)の委員には、反原発派ではなく九州電力から研究費をもらっていた学者を入れるなど、合意内容は事実上反故に――。初登庁を前にした時点で、関係者に「悪いようにはしない」と九電に伝えるよう依頼していたことも分かっている。騙されたのは県民。三反園訓は、とんだペテン師だったということだ。
知事選の公約だった九電への原発停止要請は行われたものの、まさに形だけ。通常点検と同レベルの「特別点検」でお茶を濁し、「鹿児島県原子力安全・ 避難計画防災専門委員会」は、原子炉の安全性を検証しないまま、営業運転にお墨付きを与えた。HUNTERの鹿児島県への情報公開請求で、専門委の人選理由が記録として残されていなかったことも明らかとなっている。
知事就任から1年の記者会見で平良氏と会おうとしない姿勢について問われた三反園氏は、裏返せば「会う必要がない」となる「必要があればどなたとでもお会いしたい」を連発。最大の恩人であるはずの平良氏を卑下する態度で、記者団を呆れさせていた。
その三反園氏をあわてさせているのが、知事になってからずっと避け続けてきた平良氏。4月の統一地方選挙で、鹿児島市・鹿児島郡区から出馬した同氏は、幅広い支持を得て勝ち抜き、県会議員になったのである。三反園氏にとって「必要」があろうがなかろうが、県議会で質問されれば対決するしかない。そして、その場面は、もうじきおとずれる。
都合の悪い話になると、部下の職員を矢面に立たせて逃げまわってきた知事も、今度ばかりはその手が通じない。「政策合意」の件については、当事者である知事が答えるしかないからだ。“恩人”の問いかけに、知事がどんな態度で臨むのか――関係者が固唾を飲んで見守るなか、3年間耐えてきた平良氏は19日、県議会での質問に立つ。
(*写真が平良行雄県議。県議会HPより)