9日、朝日新聞が朝刊1面のトップに掲載した記事の見出しは、「ハンセン病家族訴訟 控訴へ」。元ハンセン病患者家族への国家賠償を命じた熊本地裁の判決に対し、政府が控訴して争う方針を固めたという内容だった。(右がその紙面)
ところが、朝日の紙面が刷られつつあった同日未明、NHKがネット上で流したのは「控訴断念」のニュース。朝日の社内が、騒然となったのは言うまでもない。
朝9時前に行われた会見で安倍首相が「控訴断念」を明言したため、朝日のスクープは一転して「誤報」になるのだが、直後から「朝日が嵌められた」などと陰謀説が囁かれる事態となっている。真相は……。
■「スクープ」一転「誤報」に
NHKが、ネット上で政府の「控訴断念」を報じたのは9日午前2時頃。ほとんどの国民は、このNHKによる報道を知らぬまま朝を迎え、朝日新聞の読者は紙面を見て国が控訴するものと思ったことだろう。しかし、テレビのスイッチを入れれば、ニュースはどこも「控訴断念」。相変わらず人道無視の酷い政権だと憤慨していた人たちは、「一体どっちが本当なんだ」と首をひねる状況になった。
決着がついたのは9時前。安倍晋三首相自身が会見で控訴しないことを明言し、この時点で朝日の「誤報」が確実に。皮肉なことに、政権批判を繰り広げてきた朝日新聞が、“人権に配慮する首相”を演出した格好となった。なぜ政権批判の急先鋒が「誤報」という失態を演じることになったのか――しかも参院選の真っ最中に、である。
■説得力ない朝日の“言い訳”
間違ったハンセン病の隔離政策で元患者はもとより家族も差別され被害を受けたとして、元患者家族500人余りが国を訴えた訴訟。先月28日の熊本地裁判決は、家族が受けた損害についても国の責任を認め、国に約3億7,000万円の賠償を命じるという画期的な内容だった。
政府内では「控訴すべき」の声が大きかったとされ、朝日の記者たちもこうした流れに乗った形で取材を進めていたとみられるが、結果的には詰めが甘いまま、スクープを狙って失敗したということになる。
午前2時という、普通なら政権絡みのニュースなど流さない時間にNHKが朝日の報道を否定したことで、政権側が朝日を狙って虚偽の情報を流したとする「陰謀説」も出たが、どう甘く見てもそれはない。政権を取り巻く動きと、過去の同じような事例を知っていれば、ブレーキが効いていたはずだからだ。
過去の誤報で痛い目に遭った朝日は、独自ネタで勝負する場合、慎重の上にも慎重を期すようになっている。当然、元ハンセン病患者の家族が起こした訴訟という重い内容の事案だけに、取材を重ねて複数から確認をとり、「控訴へ」という判断を固めたのだろう。この経緯について朝日は、10日朝刊の2面全体を使って説明記事(「時々刻々」「朝日新聞社記事、誤った経緯説明します」)を載せている。
朝日新聞社記事、誤った経緯説明します元ハンセン病患者の家族への賠償判決に対する政府の控訴方針を報じた9日付記事は、政権幹部を含む複数の関係者への取材を踏まえたものでしたが、十分ではなく誤報となりました。誤った経緯について説明します。
6月28日、熊本地裁が元ハンセン病患者の家族への賠償を国に命じた判決を受け、朝日新聞は政治部、科学医療部、社会部、文化くらし報道部を中心に、政府がどう対応するのかの取材を始めました。
法務省や厚生労働省、首相官邸幹部は控訴するべきだとの意向で、あとは安倍晋三首相の政治判断が焦点でした。
首相は7月3日の党首討論会で「我々は本当に責任を感じなければならない」などと発言しました。しかし官邸幹部への取材で、この発言を受けても、控訴の流れに変わりはないと受け止めました。
8日、「ハンセン病関連で首相が9日に対応策を表明する」という情報とともに、控訴はするものの、経済支援を検討しているとの情報を得ました。さらに8日夕、首相の意向を知りうる政権幹部に取材した結果、政府が控訴する方針は変わらないと判断しました。このため朝日新聞は1面トップに「ハンセン病家族訴訟、控訴へ」との記事を掲載することを決めました。
しかし、首相は9日朝、記者団に控訴しない方針を表明しました。首相の発言を受け、これを速報するとともに、おわびの記事を配信しました。
私たちの取材は十分ではありませんでした。参院選が行われている最中に重要な政策決定をめぐって誤った記事を出し、読者や関係者の皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ありません。今後はより一層入念に事実を積み重ね、正確な報道を心がけて参ります。
2本の記事でワンセットという感じだが、残念ながらただの言い訳。「法務省や厚生労働省、首相官邸幹部」や「首相の意向を知りうる政権幹部」に聞いたとしているが、「あとは安倍晋三首相の政治判断が焦点」となっていたことを認めている。誰がどう話したにせよ、一報を出す段階で、首相本人の意向は確かめていなかったということだ。これでは、詰めが甘いという指摘をはね返すことはできないだろう。
「政治部、科学医療部、社会部、文化くらし報道部を中心に、政府がどう対応するのかの取材」したことになっているが、それが本当ならあまりにお粗末。人数をかけながら、過去の同一事例と現在の状況を重ねてみることできる記者が、一人もいなかったことになるからだ。
■参院選の年、ハンセン病訴訟で控訴を見送った小泉政権
2001年、熊本地裁は、元ハンセン病患者本人らが起こした訴訟で隔離政策を違憲として国に賠償を命じた。当時の小泉純一郎首相は、政府内の反対を押えて控訴を見送りを決断。直後の参院選で自民党は大勝する。安倍首相はその時の官房副長官。ハンセン病訴訟にどう対処すべきかを熟知する政治家だった。
元患者本人と家族の違いこそあれ、参院選絡みの同じようなケース。しかも、今回の参院選は安倍政権の今後を左右しかねない重要なイベントだ。朝日の記者たちは、小泉氏の成功事例を体験している安倍首相がどう動くか、想像力を働かせるべきだったろう。首相が今月3日の党首討論で「患者や家族の皆さんは人権が侵害され、つらい思いをしてこられた。我々は本当に責任を感じなければならない」と踏み込んでいたことを考えれば、なおさら。どこかの時点で、18年前の「控訴断念」を想起すべきだった。
朝日の「控訴へ」報道を知った官邸は、まずNHKを使ってその内容を否定。あわてる朝日を尻目に、首相が会見を開いて止めを刺したといったところだろう。調子に乗った首相が朝日の誤報を騒ぎ立てれば、「陰謀説」が説得力を持つことになるが、いまのところそうした言動は影を潜めている。
誤報である。それも、人の一生に関わる事案についての間違った報道であり、どう言い訳しても許されるものではない。朝日は猛省した上で、的を射た政権批判に力を入れてもらいたい。