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自衛官の母、たった1人の闘い(1) PKO派遣に異議――「誰も殺し、殺されてはならない」

2019年6月24日 07:40

③P01_訴訟が提起された札幌地方裁判所 2.jpg 2年前の冬、1人の女性が実の息子に“絶縁状”を渡し、国と闘い始めた。女性は陸上自衛隊の駐屯地がある北海道・千歳市で生まれ育ち、現在も同市に住む。現職自衛官の息子と縁を切ることを決意したのは、ほかならぬその息子と、彼の家族のためだった。さらに言うならば全国の現職自衛官、とりわけ海外派遣に赴く若者たちのためでもあった。
 のちに「日報」の隠蔽などがあきらかになり、当時の防衛大臣が辞任するに至った、南スーダンPKO(国連平和維持活動)陸上自衛隊派遣問題。現地での支援活動が続いていた2016年11月、女性は「平和子(たいら・かずこ)」の名で札幌地方裁判所に訴訟を提起、派遣の差し止めを求めてたった1人で国を訴えた。
「息子たち自衛官を危険に晒すぐらいなら、息子に恨まれてでも声を挙げ続ける」――。

■自衛官の息子への「絶縁状」に込めた思い
 4月16日午後、札幌地方裁判所。
「本当に安全だったのであれば、隠すことなど何ひとつないはずです」
 法廷に凛とした声を響かせるその女性――平和子さんが国を相手に裁判を起こしてから、すでに2年半が過ぎる。本年度最初の弁論を迎えたその日、平さんは原告として3度目の意見陳述に立った。
「『日報』では、戦闘激化でPKOが停止したり、自衛隊員が巻き込まれたりする可能性が指摘されており、現地は深刻な『戦闘』状態にあるとされています。しかし、重要な部分はいまだに真っ黒なままです。派遣される自衛官やその家族にさえ、真実を教えてくれていません。国には、まず事実がどうであったのかを明らかにすることを強く望みます」

 陳述に言う『日報』は、南スーダンPKOの派遣隊が当時の現地の状況を記録したもの。平さんの提訴後に防衛省による隠蔽問題が発覚し、当時の稲田朋美大臣が引責辞任するに至ったが、今もその全容は国民に明かされていない。情報公開制度を使って閲覧することはできるものの、2016年7月に現地で激しい「戦闘」があった事実など、重要な記述の多くは「真っ黒」に塗り潰されてしまう。
「下は、派遣隊が作成した2016年7月11日付モーニングレポート記載の地図。宿営地近くの「戦闘」の様子がうかがえる)

20170214_h01-03.jpg

 平さんが訴訟を決意したのは、2016年春のことだ。その前年、国会では安全保障関連法が成立、「集団的自衛権」の行使が認められ、自衛官が紛争地で戦闘に巻き込まれるおそれが現実味を帯びてきた。いても経ってもいられなくなった平さんは、派遣反対のデモや集会に積極的に参加し始める。過去にもイラク派遣(2003年から)に反対する市民の集まりに足を運んだり、一般市民としての意見を新聞に投書したことはある。だが今回は、少し違う事情を抱えながらの活動となった。民間企業に勤めていた次男が陸上自衛隊に転職し、自身が自衛官の家族となっていたのだ。
「息子は何度も先輩や上官に呼び出され、母親の私が反対運動をしていることで注意されたそうです。『今後、安保法に反対する活動はやめて欲しい。少しは自衛隊内での自分の立場を考えて欲しい』と言われました」

 何度かのやり取りを経て到った結論は、次男との縁を切ることだった。危険な任務で息子に死なれるぐらいなら、本人に恨まれてでも派遣反対の声を挙げ続けたい――。涙を拭いながら便箋7枚の「絶縁状」を綴り、16年11月に札幌地裁へ訴状を提出した。翌17年2月の初弁論で最初の意見陳述に臨んだ平さんは、その時の思いをこう語っている。
「何があっても生きていて欲しいと思うからこそ、反対の意思を示すことを許して欲しい、と綴りました。そして最後に『生き抜け。自分のところに来てくれた宝物、奥さんと子供を守り抜いて、天寿を全うしてくれ。それが母さんの願いです。今後は別の人生を歩んで行きましょう』と縁を切る決意を伝え、それ以降、息子との連絡を絶ちました」

 派遣命令について次男の妻と話す機会があった時、「大型輸送機に乗ったら最後」「家族承諾書には絶対にサインしないで」と強く伝えた。妻は「自衛隊だけが仕事じゃない。辞めたら私も働いて家庭を守ります」と答えてくれたという。

■尽きない疑問、答えぬ国
 たった1人で国に弓を引いた原告に、10人を超える弁護士が代理人受任を表明した。裁判を支援する報告会には、元自衛官も足を運んだ。国は初弁論後の17年5月、派遣隊の南スーダンからの「撤収」を報告、これをもって原告が訴訟を取り下げることに期待を寄せたが、平さんは矛を納めなかった。同年6月には2度目の意見陳述に立ち、「『撤退したね。めでたし、めでたし』では済まない」と、支援隊の宿営地である南スーダンの首都ジュバで何が起きていたのか、正しい情報の開示を求め続けることになる。
(*下は2017年3月、初弁論後に札幌市内で開かれた報告会)

②.jpg

 この間、弁護団は7,000枚に上る文書と格闘し続け、第10次隊が派遣されていた前年7月前後の「日報」を精査、6月17日に30人ほどの犠牲者を出した「抗争」、7月9日に150人が死傷した「戦闘」、その後の同11日に確認された「停戦合意」などの記述を引き、派遣に憲法違反の強い疑いがあることを指摘した。訴訟代理人のひとり・橋本祐樹弁護士(札幌弁護士会)は、当時の報告集会で次のように訴えている。
「記録の中で『停戦合意』という表現が使われたということは、それまでは停戦していなかったということじゃないでしょうか。『PKO参加五原則』の1つである『停戦合意』が、6月の時点で守られていなかったことになります」

 加えて、国の言う「撤収」は現地からの完全な撤退を意味していなかった。支援隊の帰国後も「司令部要員」の現地派遣は続いており、いつ彼らが「戦闘」に巻き込まれることになるか、平さんは気が気でなかったという。
「誰も殺し、殺されてはなりません。ほかの誰かが許しても、私にはまったく許されないことなのです」

 提訴以来、原告側は「戦闘」の事実関係や「五原則」と派遣との整合性、「撤収」を決めた理由などを質し続けているが、2年半が過ぎる今も国は明答を示していない。
                                                       (小笠原 淳)

【小笠原 淳 (おがさわら・じゅん)】
ライター。1968年11月生まれ。99年「札幌タイムス」記者。2005年から月刊誌「北方ジャーナル」を中心に執筆。著書に、地元・北海道警察の未発表不祥事を掘り起こした『見えない不祥事――北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』(リーダーズノート出版)がある。札幌市在住。
「北方ジャーナル( http://hoppo-j.com/) 」



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