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自衛官の母、たった1人の闘い(2)PKO派遣に異議――「きっかけは『イラク』だった」

2019年6月25日 07:20

⑧P03_第8回弁論後の報告会(中央が平さん、右隣に佐藤弁護士(2019.jpg 陸上自衛隊の南スーダンPKO派遣に異議を唱え、たった1人で国を相手に裁判を闘っている北海道の主婦・平和子(たいら・かずこ)さん=通称=は、幼いころから自衛隊を間近に見て育った。故郷の千歳市は、もともと米軍の駐留地。両親の職場も基地内にあったが、自身は戦後の生まれで、軍靴の音は聴いたことがない。学校では平和憲法を学び、「日本は戦争をしない」と教えられた。
 以来、それを信じて同地に住み続け、家庭をもうけるに到ったが、3人の子供たちが将来の進路を考える歳になったころ、不戦の確信を揺るがせる出来事に直面する。それまで一度も反戦運動などに参加したことがなかった一介の主婦は、初めて「黙っていられなくなった」。その後の活動の原点となった出来事は、15年ほど前に起きていた――。
(*写真は、今年4月に行われた第8回弁論後の報告会。中央が平さん)

■きっかけは「イラク派遣」
 「そのころの世論の流れに強い危機感を持ちました」――平和子さんは、2003年暮れの“事件”を振り返る。その年の夏、国会では「イラク特措法」が成立、戦闘状態が疑われる地域に日本の自衛隊が初めて派遣されることが決まった。
「小泉政権の時代に自衛隊の本質が一気に変容し、殺す・殺される軍隊に近づいていることに、母親として危機感を覚えました。それまで子供たちと平和や戦争について話す機会はほとんどありませんでしたが、自衛隊のイラク派遣が決まると状況は一変し、政治に対する疑問や不信を強く感じるようになりました。子供たちには『自分の好きな道を行きなさい。ただ、自衛隊だけはやめて欲しい』と話しました」
10余年前に抱いた危機感は、のちにPKO南スーダン派遣差止訴訟の意見陳述に盛り込まれ、札幌地方裁判所の法廷で改めて吐露されることになる。

 訴えの主は、米軍基地のお膝元で幼少期を過ごした。半世紀ほど前のことだ。目と鼻の先に「キャンプ千歳」があった。基地内のPX(売店)に勤める母と、レストランで働く父との間に生まれた平さんは、幼いころから駐留米軍の関係者と家族ぐるみのつき合いを続けた。敷地内で目の当たりにしたのは、テレビで観たままの戦勝国の豊かさ。クリスマスの綺麗な電飾や、海水浴の子供たちのおしゃれな水着に眼を見張り、片言の英語や身振り手振りで米兵やその家族たちと交流した。
「当時の私は米軍に対して特段の感情はなく、両親が基地内で舶来の人形やおもちゃを買ってきてくれるのが嬉しかったです」

 小学校に入学してまもなく、米軍は千歳から徹底、敷地内には自衛隊の駐屯地ができた。当時からベトナムに進出していた米国はその後、泥沼化した戦争で多数の兵士を失うことになるが、言うまでもなく日本の自衛隊はこれに加わっていない。学校で「日本は戦争をしない」と学んだ平さんは、同級生の多くを占める自衛官の子供たちとも屈託なく交流し、とりたてて戦争や平和について語り合うこともなかった。自衛隊は「専守防衛」だから、米軍とは全然違う――。それが当時の人たちの共通認識だった。

 中学生になったころ、図書館で枯葉剤の被害を記録した資料を紐解き、深いショックを受ける。子供ながらに平和のありがたみを噛み締め、漠然と「将来は平和に関わる活動を」と考えた。とはいえ、故郷の千歳は基地の町。保守的な土地柄ゆえか、反戦運動などを目の当たりにする機会は得られず、具体的な活動とは長いこと無縁だった。地元で結婚し、3人の子に恵まれてからは、仕事や育児に忙殺される毎日が続いた。

 沈黙を破らせたのは、2003年からの自衛隊イラク派遣。専守防衛の原則を揺るがしかねない海外派遣に、平さんははっきり「反対」の意思をもって声を挙げ始めた。そのころは子供たちも、母の考えに納得してくれていたという。派遣反対の集会やピースウォークに参加し、実名で新聞に意見を投書し続けた。06年の派遣隊撤収後も、地元紙に次のような一文を寄せている。
《米中間選挙の結果が出た。米国民はブッシュ政権のイラク政策にはっきりとノーを突きつけたといえる。米国追随が顕著な日本政府、そして国民も、イラク派遣について考え直し、軍備に税金を費やすことのむなしさに気付くときではないのか》(2006年11月12日付『北海道新聞』〈読者の声〉欄)

■人生を変えた次男の自衛隊入隊                
 当時の小泉純一郎首相は「郵政解散」を経て退任、後継の安倍晋三氏も1年で身を引き、さらに2年のちには自民党が野に下ることになる。そのころ平さんは、民間企業に勤めていた次男から転職の考えを聞いた。勤務先の業績が悪化し、知人の勧めで自衛隊に入隊することにしたという。次男は「お母さんが心配するようなことにはならないから」と言い、平さんも「民主党政権で自衛隊が戦闘に参加することはないだろう」と、とくに反対はしなかった。だがほどなく、その判断を悔やむことになる。

 旧民主党・野田佳彦内閣は2011年11月、南スーダンPKOへの自衛隊派遣を閣議決定、翌12年から支援隊の出国が始まった。同年暮れに政権を奪還した安倍自民党はその後、PKO派遣期間の延長を繰り返し、16年には他国軍を武装勢力から救出する「駆けつけ警護」を任務に加えた。

 次男の転職を認めた判断を悔やむことになった平さんは、いわゆる「安保関連法」阻止のデモなどに参加し始める。結果として同法成立を止めることはできなかったものの、それでも声を挙げ続けなくてはならないとの思いを強くしていた。
「南スーダンには親を殺されライフル銃を持たされた少年兵がいると知って、衝撃を受けました。このような少年兵に息子が撃たれたり、反対にこのような少年兵を息子が撃ったりすることを考えると、いても経ってもいられません」

 安保法反対の活動を、次男は快く思わなくなっていた。「自分の立場を考えて欲しい」と苦言を呈され、息子を守りたい思いと息子自身の考えとの間で板挟みになった平さんは、「死なれるくらいなら、恨まれてもかまわない」との結論に行き着く。便箋7枚に及ぶ「絶縁状」を次男に宛て、たった1人で国と闘うことを決めた。2016年11月、PKO派遣差止を求める訴訟を札幌地方裁判所に提起。翌年29月から現在に到るまで、同地裁では8回の口頭弁論が重ねられている。
「私は、普通の母親なら自分の子供が危ない状況に立たされた時、誰もが思うであろう気持ち、その1点で行動しています。それはどこの国だろうと、いつの時代の母親であろうと同じだと考えています」

 提訴から2年半が過ぎた今も、自衛官の次男とは音信が途絶えたままだ。

                                                       (小笠原 淳)

【小笠原 淳 (おがさわら・じゅん)】
ライター。1968年11月生まれ。99年「札幌タイムス」記者。2005年から月刊誌「北方ジャーナル」を中心に執筆。著書に、地元・北海道警察の未発表不祥事を掘り起こした『見えない不祥事――北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』(リーダーズノート出版)がある。札幌市在住。
「北方ジャーナル( http://hoppo-j.com/) 」



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