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被災地置き去り 聞いて呆れる「国難突破」

2017年9月26日 09:30

0-東峰村役場-2.jpg 「照一隅」――比叡山の開祖である伝教大師・最澄の言葉である。片隅を照らすのは、政治に与えられた使命。弱い立場の人や、困っている人を切り捨てる政治を、私たちは容認すべきではない。
 「国難突破」を理由に解散総選挙に打って出るという安倍首相だが、この人にとって大切なのは、国民の痛みではなく自分の痛みを取り除くことだ。
 「この時期じゃないとダメなのか」。九州北部豪雨で大きな被害を受けた東峰村の職員が絞り出した言葉がすべてを物語っている。(写真は被災直後の東峰村役場)

■大義なき解散 自己中心的な安倍の政治手法
 安倍首相は、28日に開会される臨時国会冒頭で衆議院を解散し、来月10日公示、22日投・開票の予定で総選挙をやると表明した。「モリカケ(森友学園、加計学園)解散」との指摘もあるように、今回の解散は安倍自身が「お友達」に便宜をはかったとされる疑惑の追及から逃れるためだ。そこに「大義」などあるはずがないし、民進党や小池新党の戦闘態勢が整う前を狙った姑息な政治手法でもある。昨日安倍が会見で述べた聞き苦しい言い訳の数々には、「自分さえ良ければ」「自民党が勝てれば」といった自己中心的な思考の底が透けて見える。

 民主主義国家を標榜する以上、「政治とは選挙だ」という考え方に一定の説得力はある。しかし、25日の会見で安倍が訴えた解散理由のどこにも、国民の声や視点は反映されていない。これまで一度も約束を果たしたことのない無責任首相のことであるから、ある意味では予想通り。おぼっちゃまの性根が透けて見えて喜劇的でもあるが、この事態を笑えない国民がいることも忘れてはならない。

■被災地の本音
 極論ではあるが、最も政治的指導力が求められる場とは、弱者救済の局面であるべきだ。それぞれの時代において自助努力では越えられない壁を壊し、あるいは低くすることで弱者に希望を与えずして、なにが政治か。安倍首相にそういった視点があるのかといえば、甚だ疑問と言わざるをえない。たとえば、7月の九州北部豪雨で被害を受けた地域の復旧・復興に向けた日々の営みのことが、解散を考えたときに一瞬でも頭をよぎったのか。選挙となれば、復旧作業に携わる行政職員も引っ張り出される。結果として復旧が遅れ、被災者の日常を取り戻す作業が遅れ、被災者の心のケアも遅れる。政治=選挙という物言いが政治家の本音であるのなら、国民は「政治とは『現場』だ」と叫び返す必要がある。現場を無視した政治とはすなわち国民不在の独裁政治とも言えるのだから。

 九州北部豪雨で被害を受けた地域の自治体に話を聞いた。冒頭の言葉は取材の過程で、東峰村の職員から飛び出したもの。公正中立を旨とし政治的な発言には敏感なはずの公務員をしてこう言わせる状況を、安倍首相はおそらく承知していない。知る気もない、というのが表現としては事実に近いのかもしれない。豪雨被害を受け、復旧・復興にとりくむ自治体の担当職員に、選挙体制と作業への影響について聞いた。

0-選挙の影響.png

 予定されているスケジュールでいけば、東峰村は10月15日の村長選挙に続いて2週連続の選挙になる。朝倉市のある職員は、選挙立会人を被災者の中から選ぶことについて、率直に「心苦しい」と語った。これが被災地の本音なのだ。

■冒頭解散でなくなった復興予算
 福岡県は、被災者・被災地に対する支援として、「被災者生活再建支援法」などの個別法とは別の「特段の配慮」に基づく包括的な財政支援を国に求めていた。しかし、臨時国会冒頭の解散によって補正予算が組まれることはなくなった。「被災者を見捨てた」形での突然の解散は、無責任首相の面目躍如といったところだろう。国家主義者である安倍にとって、地方の苦しみなど捨て置くべき課題に過ぎない。これは、沖縄の民意を無視する姿勢と通底する。

 「照一隅」を体現する政治家が少なくなったのは確か。安倍政権になって、全体主義者が幅を利かす世の中ではなおのことだ。だから被災者を置き去りにして、平気で解散・総選挙などと言えるのだろう。弱者切り捨てが、どれだけ罪深いことなのか。それを思い知らせるために国民ができることは、投票行動しかない。あなたが、“被災地の住民”になる可能性もあるのだから。



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