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沖縄(下)

2017年9月15日 09:45

0-DSC05137.jpg 自分の住む、あるいは生まれた都道府県の歴史を問われ、スラスラと答えられる人がどれほどいるだろうか。歴史に学ぶことが下手な日本人であることは疑いようがなく、つい70年ばかり前の戦争の記憶さえ薄れがちだ。
 しかし、沖縄では日常の中に「戦争」があり、いまも県民の暮らしに影を落とす。戦争と沖縄を結び付けているのが「基地」であることは言うまでもない。
 沖縄の米軍施設は31。区域面積は186,092千m2にのぼり、県土全体の約1割を占める。沖縄本島に限れば2割近くが米軍基地というのが実情。沖縄を除く46都道府県のどこを探しても、これほどの理不尽を押し付けられている自治体はあるまい。
 米軍普天間飛行場の移転先である名護市辺野古――。そこは、“戦後”を2度経験し、再び戦争の前線基地にされようとしている場所だ。

■辺野古
 辺野古はかつて米軍とともに栄えた土地。地域内のそこかしこに名残がある。キャンプシュワブのゲート前を通る道路から辺野古への入り口には、現状に合わない表示灯。「辺野古へようこそ」「WELCOME」の文字に、もの悲しさが漂う。

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 かつてここは、「アップルタウン」と呼ばれた。表示灯の下に、由来を記した看板が設置されている。

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 沖縄戦で疲弊した辺野古は、新たな統治者となった米軍との共存に活路を求めた。キャンプ・シュワブのアメリカ兵が落とすカネは、終戦後の復興期、わずか140世帯に過ぎなかった辺野古に賑わいをもたらしたのである。中心となった街区は、まちづくりに協力した米軍少佐の名をとって「アップルタウン」と呼ばれ、1960年から始まったベトナム戦争が、辺野古に束の間の繁栄をもたらす。ピークとなった1975年には、約300世帯、2,000人を超える住民が暮らしていたという。

 アップルタウンでは多くのレストランやクラブが営業し、人気のロックバンドが演奏に訪れていたという。米兵や日本人の若者が溢れ、熱気に包まれた街だった。いまも、その名残はある。

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 比較的新しい家屋も点在するが、集落全体を包むのは虚脱感だ。ベトナム戦争終結から40年。辺野古には、明らかに“もうひとつの戦後”が存在している。アメリカは73年にベトナムから撤退。ベトナム戦争自体も1975年に終結し、辺野古は衰退の一途をたどる。

■犠牲
 普天間飛行場の辺野古移設が実現しても、この地域がアップルタウンの時代に戻ることはない。ベトナム戦争同様の紛争が起きるとすれば、相手国はおそらく中国。昔のベトナムとは桁違いの戦力を有する大国が相手なのだ。地理的関係を考えれば、沖縄は前線基地。のんびり音楽と酒に溺れることなどできまい。それでも、辺野古地区の一部住民の中には、新たな基地に依存することを望む人たちがいる。

 原発と同じ発想だが、政府が考えたのは「カネの力」。地元漁協に数十億円という途方もないカネをばら撒き、辺野古の三つの自治会には補助金というエサをぶら下げた。大半の県民が辺野古移設に反対する一方、辺野古地区だけが孤立する形になっている。責めることはできまい。米軍と国の方針に振り回され続けてきた辺野古の住民には、闘う力などないからだ。アップルタウンの「遺構」が、それを如実に物語っている。

 沖縄戦当時、米軍の艦船が埋め尽くしたというマリンブルーの海は、いま、美しく輝いている。普天間飛行場の移設先であるキャンプ・シュワブ沿岸部には臨時制限区域を示すフロートが設置されているが、周辺はジュゴンの生息域だという。なぜ沖縄の貴重な宝を埋め立てなければならないのか?なぜ沖縄だけが、戦争の犠牲になり続けなければならないのか?なぜ本土メディアは沖縄の思いを伝えきれないのか?沖縄取材の度に、そうした思いは募る一方だ。

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