佐賀県の山口祥義知事が24日、玄海原子力発電所3、4号機(玄海町)の再稼働に同意することを表明した。「熟慮に熟慮」を重ねた末に、「現状においてやむを得ないとの判断」をしたのだという。予想された言い訳である。
地元の手続きはすべて終了したとしているが、そもそも「地元」の定義は曖昧なまま。原発立地自治体と県だけに同意権限が限定されており、周辺自治体に住む住民の意見は無視されている。
福島第一原発の事故から6年。この国の原子力行政は何も変わっていない。(写真は玄海原発)
■「地元同意」の曖昧さ
いまさら言うまでもないことだが、福島第一原発の事故は、放射能の被害が立地自治体だけに止まらないことを知らしめた。国が緊急時防護措置準備区域(UPZ)を30キロ圏にまで拡大したのは、福島第一の事故を受けてのことである。当然、原発から30K圏内にある自治体には原発に関する「合意」の権限があるはずだ。しかし、国や電力会社は立地自治体の合意だけで原発再稼働が可能との見解を崩しておらず、周辺自治体の声は原子力行政に生かされていない。
玄海原発から30キロ圏内に入るのは、佐賀県玄海町・唐津市・伊万里市、長崎県松浦市・平戸市・壱岐市・佐世保市、福岡県糸島市の8自治体。
このうち半数にあたる、伊万里市、平戸市、松浦市、壱岐市の4自治体が再稼働に反対だ。30キロ圏からやや外れる佐賀県神埼市と嬉野市も再稼働に反発している。だが、国や九州電力はこうした周辺自治体の声を無視。「立地自治体と知事の合意で再稼働」という、フクシマ以前と変わらぬ論法で、玄海原発の再稼働を決めてしまった。結局「地元」の定義は示されぬまま。法的根拠を欠いたまま、原発再稼働が進んでいるのが現状だ。
原発大国・日本には、原発の同意権限について定めた法律がない。原発の是非を判断する権限を立地自治体だけに絞っているのは、国と電力会社――つまり「原子力ムラ」が勝手に決めたルール。国策であるはずの原発が、民主主義国家とは思えぬ杜撰な体制下で運営されているというのが実情だ。原発が過酷事故を起こせば多くの人命や国民の財産が奪われるというのに、国民の声を原発行政に反映させる法律がないという不条理。「法治国家」が聞いて呆れる。
■国、県、電力会社の無責任
山口知事は、国や電力会社の責任が明確化されたという趣旨の発言をしている。もちろん、原発に関する責任は国と電力会社にある。しかし、「責任を待つ」と言うが、一体どのような形の責任のことを言っているのか?「安全性」についての責任なのか、事故が起きた場合の「補償」についての責任なのか、具体的なことは何も示されていない。
原発に100%の安全などないことは、周知の通り。自然災害、人的ミス、テロ……。安全を脅かす要因について、完全な防御策などあるはずがない。補償にしても、巨大組織東電でさえできないものを、九電ごときの体力で成せるはずがあるまい。国が補償するということは、国民の税金で賄うということ。結局原発は、建設から廃炉そして事故対応までの一切合体を、国民が背負っているのである。にもかかわらず、原発に関する合意権限さえ持たされぬというのだから、理不尽極まりない話だろう。
原発に事故が起きてしまえば、避難計画などあってないようなもの。放射性物質が降り注いだ瞬間、住民は放射能に汚染されてしまう。国が言う「責任」とは、安全性についてのことではなく「補償」。カネは払ってやるから、原発を受け入れろというわけだ。だが、補償の原資は税金。政治家や役員が腹を切るわけではない。無責任と言うしかあるまい。
さらに問題なのは、原発が稼働することで増え続ける放射性廃棄物(核ゴミ)の処分方法が決まっていないことである。政府は、昨年中にも発表するとしていた核ゴミ処分場の「科学的有望地」についてダンマリを決め込んでおり、発表がいつになるか分からないという。ゴミ袋はパンパンに膨らんでいるが、捨て場がないという状況。肝心の問題を先送りしたまま、ゴミだけは増やそうというのが安倍政権の姿勢なのである。
佐賀県が県内5カ所で実施した県民説明会では、原発再稼働に反対する意見が圧倒的に多かったという。山口知事はそのことについて、「県民と対話した皮膚感覚で、総合的に考えて理解を得られた」と強弁した。この人の皮膚感覚は、麻痺しているのだろう。