トランプ大統領の武器となっているのが、ツイッターを使った情報発信。傍若無人なつぶやきの標的は、大統領選で敵対したクリントン氏からマスコミへと移り、他国の元首にまでと止まるところを知らない。ついには、入国禁止令に待ったをかけた裁判官、司法制度を罵倒するに及び、三権分立など糞くらえといった状況だ。
トランプ流ツイッター政治をどう見るか?
■「まるで子供」
ツイッター(twitter)は、ウェブ上に投稿されたツイートと呼ばれる短文を、不特定多数と共有できる情報サービスだ。ツイッターを和訳すれば「小鳥のさえずり」。ツイートは、意訳された「つぶやき」として定着している。1回のツイートは140文字以内。「さえずり」「つぶやき」が示す通り、簡潔かつ一方的な情報発信である。当然、1対多での質疑は不可能。政策発表の手法として、不適当であることは言うまでもない。記者会見の中で、記者団とのやり取りによって明らかになる政策の趣旨や背景が、伝わらないからだ。
大統領就任以降、トランプの情報発信はもっぱらツイッターによるもの。マスコミとの質疑を嫌ってか、記者会見はほとんど開かれていない。メキシコ国境の壁、入国禁止、TPP離脱……。いずれも大統領令を発しただけで、詳しい説明はなし。為政者に求められる「説明責任」は、一切果たされていない。トランプは、140字以内の“つぶやき”で、すべてを済ますつもりなのだろう。異常事態と言うしかない。昨年社会人になったという20代女性は、あきれ顔でこう話す。
――ツイッターを通じ、次々に批判、主張を投げかけるトランプさん。衝動的・排他的な発言に、これが自由の国アメリカの大統領の言葉かと衝撃を受けました。自分を批判した者に対する徹底的な攻撃は、まるで子供。幼い子が、上手くいかないことに対して憤慨する様に似ていますね。
たしかに、トランプの姿勢は「駄々っ子」のそれ。入国禁止令について、違法とする裁判所の決定が続いたことに苛立ちを隠せず、ツイッターで裁判官に噛みつき、決定を「早くしろ」と恫喝する幼稚さだ。私的なつぶやきとはいえ、大統領の司法への介入は国の根幹を揺るがす違憲行為だ。オバマ政権時代の高官は、暴走するトランプを「クレイジー」と評している。
■橋下氏との共通点
ツイッターに頼る情報発信は、日本の元政治家の十八番。九州地方のある公立高校教員は、トランプと元大阪市長の共通点について次のように語る。
――ツイッター政治の先駆けと言えば、橋下徹元大阪市長。米大統領選の最中から、橋下氏はトランプを推し続けてきました。ポピュリズムを否定しながら、国民の感情を煽り、選挙で当選するや全権を白紙委任されたとして、自身の考えのみで突っ走って来たのが、橋下さんです。論理の構築も、深い洞察もなく、思いつきでも何でも発信し、攻撃されれば他者批判と自己弁護に終始する。そう考えると、橋下さんとトランプは実によく似ています。権力者が自分の思い付きや好みをツィッターで一方的に発信する。いかがなものでしょうか。政治家には、記者会見など、いくらでも自分の考えを披露する場はあるはず。それまで待ってはいられないということなのか、会見自体が嫌なのか……。瞬間的な“つぶやき”に、一喜一憂する大衆、そして政治家たち。おそらく、安倍首相もその一人でしょう。トランプに気に入られようと動く日本の政治家や企業人たち。みっともないとしか言いようがない。まるで、独裁者に跪くお茶坊主ですね。
そもそも政治家にとって言葉は命。かつての政治家たちは、常に先々や周囲への影響を考え、言葉を選んで話したものです。外交も同じ。日露戦争の終結時、米国・ポーツマスで交渉にあたった外交官の小村寿太郎は、ロシア語は堪能であったが、一切ロシア語は使わず、通訳を入れて、相手の2倍の時間を確保し、言葉を選んで発していたといいます。トランプとゴルフで喜ぶ日本の首相……。政治の劣化は、深刻と言わざるを得ません。政治家の言葉はもっと深く、重くあってほしいものです。
トランプ流を認めれば、「報道」は必要ないということになる。現役の全国紙記者は、ツイッターに頼るトランプの手法を「指先政治」だとして批判。報道の姿勢についても、覚悟が必要だとして次のように述べている。
――権力者には説明責任がある。権力の源泉は、主権者の負託にほかならないが、すべての主権者の思いに応えられるわけではないから、なぜそのような選択を取るのか、説明して納得してもらう責任があるのだ。説明とは問われたことに答えることだ。言いたいことを言い募るのとは違う。ビジネス界出身のトランプ氏はこの基本が全くわかっていない。「トランプホテルが嫌なら別のホテルに泊まればいい」というのが基本原則である世界と違って、権力者が一つの選択肢を取れば、別の選択肢を求める人たちの行き場がなくなってしまう。否応なしの強制力を、トランプ氏は持っている。言いたい放題が許されるのはギリギリ、主権者から選ばれる側である大統領候補までだ。今は違う。
トランプ氏はビジネスパーソンとして、あるいはテレビタレントとして、類稀なる才能を持った成功者だと自負しているのかもしれないが。だが、いま彼がやっていることは極めて凡庸な、ありふれた権力者の振る舞いに過ぎない。権力の扱い方を誤り、反対の声が強くなり、都合が悪いことが出始めると、問われてもいないことを声高に叫んでみたり、問う側に批判の矛先を向けたりする。あまりに陳腐だ。
思い出されるのは1972年、佐藤栄作の首相退陣会見だ。「テレビカメラどこかね、テレビカメラ?」「新聞記者の諸君とは話さないことになっている。違うんですよ、僕は国民に直接話したい」「偏向的な新聞は嫌い、大嫌いなんだ」と言い出し、すったもんだの末、がらんとした会見室で、ひとりテレビカメラに向かって話す異例の幕引きとなった。
岸信介の実弟、東大卒、官僚出身で、戦後最長の2798日もの間、権力の座にあった佐藤からすれば、その政権末期には腹に据えかねることが積み重なっていた。派閥が政治を動かしていた時代にあって、佐藤派の大番頭だった田中角栄に寝首をかかれる形で政権を譲らざるを得なくなったこと。日米繊維交渉がもつれにもつれたこと。直前に成し遂げた沖縄返還をめぐり、米国が支払うべき巨額の費用を日本が肩代わりする密約を追及されていたこと。「国民に直接話したい」という聞こえのいい言葉の裏には、そんな背景があった。
ネット全盛の現在、政治家とメディアの力関係は大きく変わった。PRビジネスも政治の世界に浸透している。メディアで働く者としては、権力者がメディアを避け、一方的な情報発信に勤しんでいる時、あるいはメディア批判を強めている時、本当の問題がどこにあるかを見極め、伝えていく力と覚悟が問われていると思っている。