現実味を帯び始めた2025年の大阪万博。昨日配信の記事の通り、理念を置き去りにした支離滅裂な構想案で、このままでは、政財界の満足と利益のために、公金が食い物にされることは避けられない。一方で、「人類の進歩と調和」を掲げ、6421万人を超える入場者数を記録した1970年の大阪万博は、興行として成功を収めただけでなく、その後の社会のあり方に大きな影響を与えた。開催から半世紀近くが経ち、漠とした成功イメージだけが残りつつある今こそ、先人たちがあの万博に込めた志や葛藤を振り返る必要がある。そうすることで、理念も議論も置き去りにした2025年構想のばかばかしさが浮き彫りになる。
(写真は「太陽の塔」)
■本当のテーマは「不調和」と「知恵」だった
1965年、日本政府が万博誘致のために設置した大阪国際博覧会準備委員会は、万博の理念を起草する「テーマ委員会」を立ち上げる。委員長は、物理学者で東大総長を務めた茅誠司。副委員長は、京都学派の中心的な存在だった桑原武夫。委員には日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹、ソニー創業者・井深大、建築家・丹下健三、作家・大佛次郎、ジャーナリスト・松本重治ら、そうそうたる名前が並んだ。
あまり知られていないことだが、桑原らが中心を担ったテーマ委員会が当初、採用を検討した言葉は「不調和」と「知恵」だった。念頭にあったのは例えば、水俣病であり、ベトナム戦争だった。科学技術文明がもたらした困難と、民族・国家・イデオロギーをめぐる紛争。そんな人類をめぐる「不調和」に、どんな「知恵」を出し合えるのか。当時の世界を見渡して、そんな壮大かつ切実なテーマにこそ、取り組むべきだと見定めた。
通産省が当初、用意していたテーマ案は「産業発展と人類平和」「すべての国を先進国に」「豊かな生活を人類の手に」といったものだった。桑原らテーマ委員会の問題意識の鋭さは明らかだ。2025年構想における議論との落差を思わずにいられない。
■6421万人動員の原動力
最終的な表現は「人類の進歩と調和」に落ち着いた。過去の万博のテーマとの重複を避けるなど調整を重ねた末、より前向きな言葉が選ばれた。当時、小学生以上だった人であれば知らない人はいないであろうこの言葉が、右肩上がりの時代の追い風をめいっぱい受け止める帆の役割を果たした。
'70版大阪万博の正式名称は「日本万国博覧会」だ。敗戦国として焼け野原から立ち上がり、高度経済成長を続ける中で、1964年には東京五輪を成功させ、先進国クラブと言われたOECD加盟も果たした。68年にはGNP世界2位を達成した。国家プロジェクトとして、新生・日本を世界にアピールするには「知恵」ではなく「進歩」、「不調和」ではなく「調和」でなければならかったとさえ思える。大行列の発生源となったアメリカ館の「月の石」は「知恵」というよりは「進歩」の賜だろうし、77もの参加国を集めたのだから、課題としての「不調和」よりも、理想としての「調和」を強調するのがふさわしい。いずれにせよ、2010年の上海万博が7308万人を記録するまで破られることのない入場者数を記録できたことに、「進歩と調和」が貢献したことは間違いない。
■シンポとチョウワの影
一方で、「知恵」が「進歩」に、「不調和」が「調和」に置き換えられたことで、桑原らテーマ委員会の問題意識がぼやけてしまったことも指摘しておかねばならない。
「進歩」が持つ強烈に明るいインパクトは、桑原らテーマ委員会が「知恵」に込めた近代主義、合理主義への懐疑を消し去ってしまった。万博を通じて人々が向ける視線は、現実の重苦しい難題というよりは、ひたすら明るい未来の方へ吸い寄せられた。「不調和」から「不」の一文字が落とされたことで、桑原らが持っていた現状認識の冷徹さは後景に追いやられ、「調和」とはすなわち、まだ珍しかった外国人と触れ合うよう、引っ込み思案の日本人の背中を押す程度の意味になった。
通産官僚や財界関係者が仕切る万博協会側は、桑原らの問題意識を実際の万博運営に生かそうとしなかった。原爆展示の計画は、政府や自治体の「生々しすぎる」という横やりで内容変更を余儀なくされた。日本館の歴史展示は、明治から現代へと飛び越えることで戦争の記憶を消し去り、経済成長ぶりを前面に出した。開幕後も、会場入り口で署名とカンパを呼びかけた水俣の巡礼団に、万博協会側は署名・カンパ禁止の規則を理由に、カンパしようとした市民の手を押さえて制止までした(※1)。
加えて、2011年3月11日の後を生きる立場から振り返れば、決して見逃すことができない事実がある。1970年3月14日、大阪万博開会の日。敦賀原発1号機が営業運転を開始し、万博会場に初送電した。「原子の灯」の到着に、人々は喝采を送った。米GE社製の日本初の軽水炉。戦火を交えた二つの国が最先端の科学技術で切り開く未来――。これぞ「人類の進歩と調和」を象徴する出来事だと受け止められた。万博閉幕の半年後に運転を始めた東京電力福島第一原発に待ち構えている未来については語るまでもない。
■岡本太郎の反骨
テーマの持つ影響力は大きい。そのことを最もよく分かっていたのは、桑原らの強い推薦を受け、「人類の進歩と調和」を表現する「テーマ展示館」のプロデューサーに就任した岡本太郎だろう(※2)。
岡本は万博の胡散臭さをかぎ取って、「人類の進歩と調和」という言葉に疑問を投げかけ、それと対峙する「ベラボーなものをつくる」と宣言した。テーマ展示の中心となった「太陽の塔」は「反博(=反万博)」だとも繰り返し公言した。本人の弁を引こう。
エキスポ'70のテーマ・プロデューサーを引き受けたとき、私はその中核に人間であることの誇り、生きていることの歓びを爆発させたいと思った。テーマは「人類の進歩と調和」だ。正直に言って、いささかこの表現に抵抗を感じた。(中略)それ(科学工業力による膨大な生産力)が果たして真の生活を充実させ、人間的・精神的な前進を意味しているかどうかということになると、たいへん疑問である。(中略)アジアで初めて開かれる今度の万国博にはそれらのAA(アジア・アフリカ)諸国も競って参加するだろう。それなのに今までの万国博のように科学や工業の成果ばかりを幻惑的に展示するというやり方だったら、開発途上にある新興諸国は肩身の狭い思いをしなければならない。富と巨大な力を誇る大国だけが大きな顔をしているなんて卑しい。「祭り」にならない。そのような進歩主義、近代主義的な意識を、この際ぶち破らなければ、と思った。
すでにテーマ展示周辺の目玉企画は、モダニズム建築の伝道者、丹下健三の設計による「お祭り広場」に決まっていたが、岡本は丹下の反発を押し切り、お祭り広場の大屋根を文字通り、ぶち破って太陽の塔を建てた。再び、本人の弁。
人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。ラスコーの壁画だって、ツタンカーメンだって、いまの人間にあんなもの作れるか。(中略)ガンガンとフェア―に相手にぶつかりあって、闘って、そこに生まれるのが本当の調和なんだ。(中略)(中略)太古の昔から、どんとそこに生えていたんじゃないかと思われるような、そして周囲と全く調和しない、そういうものを突きつける必要があったんだ。
太陽の塔は、縄文土器、埴輪、アステカ文明、イヌイットのトーテムポール、あるいはピカソにミロといった世界中の造形を取り込んでいる。パリのソルボンヌ大学で民俗学者マルセル・モースの薫陶を受けた前衛芸術家の本領が結実した傑作と言えるだろう(※3)。
■2025年大阪万博のレガシーは
科学技術の粋を集めた数多のパビリオンが姿を消した千里丘陵に、その巨像は今も立っている。閉幕後に解体されるはずだったが、地元の小中学生まで加わった撤去反対運動が起こった。その妖気は、今なお見る者を惹き付けてやまない。太陽の塔は正真正銘、大阪万博のレガシーである。
(写真は、お祭り広場から見た太陽の塔の後ろ姿。大屋根はごく一部を残して撤去された)
一方で、いま同じ大阪で交わされている議論の軽さはどうだろう。日本維新の会が牛耳る府・市は、理念などどうでもいいと思っているのだろう。カネに絡んで辞職に追い込まれた猪瀬直樹・元東京都知事を府・市そろって特別顧問に招いているのは、その証拠の一つではないか。大阪の副首都化と万博誘致に向け、助言を仰いでいるそうだが、彼から学ぶべきものがあるとすれば、「復興五輪」や「コンパクト五輪」などと、出来合いの売り文句で招致に成功したところで結局、ツケから逃れられるわけではないという反省と教訓だろう。
2025年の大阪万博にレガシーはあり得るか。人類と世界への切実な問題意識にかかっている。とりあえずカネがもうかればテーマなど何でもいいと思っているなら、それはかつて大阪で開かれた万博とは似て非なるものだ。先達の名を汚さぬよう、さっさと構想を取り下げるべきだ。
【参考図書】
(※1)吉見俊哉「万博幻想―戦後政治の呪縛」(ちくま新書、2005年)
(※2)平野繁臣「国際博覧会歴史事典」(内山工房、1999年)
(※3)佐野真由子編「万国博覧会と人間の歴史」(思文閣出版、2015年)