政治記者の「右向け右」は相変わらず。維新の党の分裂騒ぎなど、新聞の1面を飾るほどのネタではあるまいと思うが、先週末から報道の主役は橋下徹大阪市長。主要なメディアは、嘘つき政治家と周辺のドタバタを事細かに追い続けており、ある意味、政権と橋下の思う壺だ。
現在、この国にとって最重要の課題となっているのは、集団的自衛権の行使を可能ならしめる安全保障関連法案の是非。国会論戦を通じ、安倍晋三首相が昨年の閣議決定にあたって明言した集団的自衛権行使の「目的」が失われてしまっているというのに、維新にかまけて、「消えた邦人」についての報道が通り一遍で終わっている。
目的は邦人保護だったはずだが……
昨年5月、集団的自衛権の行使容認とそれに伴う解釈改憲を閣議決定した安倍首相は、会見を行い、パネルを使ってこう説明していた。
今や海外に住む日本人は150万人、さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます。そこから逃げようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助、輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない、これが憲法の現在の解釈です。
“だから憲法解釈を変えて、集団的自衛権の行使ができるようにする必要がある”というのが主張の本旨。米艦防護の目的は、あくまでも“乗船している邦人を救うため”で、首相が使ったフリップには、たしかに邦人親子とみられる人物が描かれていた(下参照)。
邦人不在の米艦も防護対象に
現在国会で審議されている安全保障関連法案は、首相が閣議決定を強行した集団的自衛権の行使を実現するためのもの。当然、その「目的」が揺らぐようでは、法案の意味はなくなる。だが先月26日、参院平和安全法制特別委員会で、自衛隊が集団的自衛権を行使して米艦船を守る事例について聞かれた中谷元防衛相は、こう答弁した。
(米艦に)邦人が乗っていないからといって、存立危機事態に決して該当しないというものではない。
さらに防衛相は、「邦人が乗っているか、いないかは、判断要素の一つではあるが、絶対的なものではない」とも述べている。つまり、邦人が乗っていない米艦も、防護の対象=集団的自衛権の行使対象=になり得るとの見方だ。だが、政府はこれまで集団的自衛権の行使が必要なケースとして、紛争地域から避難する在外邦人を日本へ輸送する米艦が攻撃を受けた場合だけを象徴的に例示してきた。防衛相の見解は、閣議決定時に首相が国民に示した米艦防護の「目的」が、大きく変わることを意味している。新たなフリップを示すとすれば、次のようなものだろう。
米艦から邦人が消え、防護対象となるのは「米軍」。じつは、これこそ現実に最も近い形で、首相が例示した事態が実際に生まれる可能性は皆無に近い。
まず、邦人であれ米国人であれ、民間人を紛争地域から脱出させるとすれば航空機を使うのが常識。艦船を使うことなど考えられない。仮に艦船を利用せざるを得なくなったとしても、米国が無防備の艦船を航行させるはずがない。米艦が攻撃を受けたとすれば、まず米国の戦闘艦もしくは航空機が相手を叩き潰すと考えるのが普通だろう。首相の想定は非現実的。フリップは、国民を欺くための道具に過ぎなかったということだ。
廃案あるのみ
安全保障関連法案は、政府側がどう言い逃れようと「戦争法案」だ。首相や菅義偉官房長官は国民に「誤解」があると言うが、国民が何をどう誤解しているのかについては、いまだに具体的な説明がない。国民の反対意見は、すべて「誤解」に基づくもの――つまりは「間違い」なのだと決めつけてかかるのは傲慢さの表れだろう。
先月30日には、戦争法案反対を叫ぶ老若男女が国会前に12万人。全国各地で同様の動きがあったと報じられている。集団的自衛権の行使は「国民を守るため」だと主張し続けてきた首相だが、実態は米軍の補完を目的とするもの。前提が“虚構”であると判明した以上、間違いを認め、安保法案を廃案にするのが「民主主義」というものだ。この段階で、対案だの修正案だのを求める必要はない。メディアがなすべきは、欺瞞に満ちた安倍政権の実相をつまびらかにし、“戦争への道”を絶つことだろう。