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辺野古にある「もうひとつの戦後」 ― 沖縄の現状(2)

2015年6月24日 08:50

辺野古 戦後70年、沖縄戦で国の捨て石にされた沖縄は、常に米軍の支配下に置かれ続けてきた。1972年に本土復帰を遂げたものの、県土の1割以上を米軍に占拠される状態は変わっていない。
 普天間飛行場(宜野湾市)の移設先として注目を集めてきた名護市辺野古。訪れる度に感じるのは“もうひとつの戦後”である。

米軍とともに歩んできた集落
 県都である那覇から約70キロ。沖縄本島東海岸の一角に、その集落はある。名護市辺野古――単位集落としては全国一有名となったこの地が、一躍脚光を浴びるようになったのは1997年に普天間飛行場の移設先としてキャンプシュワブが浮上してから。移設をめぐる紆余曲折は周知の通りだが、いまや「辺野古」の地名は基地に苦しむオキナワの象徴となっている。そうした過程も含め、辺野古の歴史は米軍を抜きには語れない。

 70年前、全県がそうであったように、海辺にあるのどかな集落だった辺野古も、沖縄戦で疲弊した。戦後、集落は復興したが、農・林業に依存した暮らしは良くならなかった。転機となったのは1950年に勃発した朝鮮戦争。極東有事に備えるため、軍事基地の増強を図りつつあった米軍は、朝鮮戦争終結後も沖縄の土地を強制的に接収していったのである。そして1950年代後半、辺野古の住民は、統治者として君臨する米軍と共生するまちづくりを目指すことを決め、基地建設を容認するに至る。経済基盤は「基地」。1960年、折から始まったベトナム戦争が、辺野古に束の間の繁栄をもたらすことになる。

 キャンプシュワブのアメリカ兵が落とすカネは、終戦後の復興期にわずか140世帯に過ぎなかった辺野古に賑わいをもたらし、ピークとなった1975年には、約300世帯、2,000人を超える住民が暮らすまでになった。なかでも、中心となった街区は、まちづくりに協力した米軍少佐の名をとって「アップルタウン」と呼ばれたのだという。ところが、アメリカは73年にベトナムから撤退。ベトナム戦争自体も1975年に終結し、辺野古は衰退の一途をたどることになる。

ゴーストタウン
 下は、現在の辺野古アップルタウン。昼過ぎだというのに人影はなく、見かけるのは猫ばかり。暮らしの音さえ途絶えている。 

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 点在する廃屋。建物に残るアルファベットが、かつてそこにレストランやクラブがあったことを教えてくれる。アップルタウンは、すなわち歓楽街。60年代、ここには多くの米兵や日本人の若者が溢れ熱気に包まれていたはずだが、いまやゴーストタウン。新しい家屋もあるにはあるが、集落全体を包む虚脱感は拭いようもない。ベトナム戦争終結から40年。辺野古には、“もうひとつの戦後”が存在している。

辺野古の様子

 普天間の辺野古移設について、地元としての考えを聞こうとしたが、みな一様に口が重い。公民館(辺野古交流プラザ)にいた区長に収財を申し込んだが、「忙しい」と取り付く島もない。軍用地主会が入居する辺野古コミュニュティ―センターも、「公民館に行ってくれ」だった。

 老朽化したかつてのクラブで商売しているという人をはじめ、出会った人に片っ端から話を聞いたところ、何人もの人から「もろ手を挙げての賛成じゃない」といった苦しい心のうちを聞かされた。「沖縄の民意は移設反対」――そうした報道に接する度に、心が重くなるのだという。辺野古は、条件付きながら新滑走路建設容認。その昔、キャンプシュワブを受け容れた時のように、米軍基地に集落の未来を託そうとしているからだ。地元振興のために基地を受け容れるという構図は同じ。昭和から平成へと時代は移ったが、辺野古は同じ選択をを繰り返そうとしているのである。キャンプシュワブの必要性がなくなった時、辺野古はどうなるのか?アップルタウンの現在が、その答えを語っていると思うのだが……。

砲弾
 取材中、突然「ドーン」という腹に響くような音がして、驚かされた。キャンプシュワブの敷地内にある丘陵に、海兵隊が榴弾砲を打ち込む訓練だという(下の写真)。太平洋戦争末期、艦砲射撃をはじめとする爆弾の嵐を受け止めた沖縄が、いまも米軍の砲弾に晒される現実。辺野古が3度目の“戦後”を経験することが無いよう、祈るばかりだ。

榴弾砲



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