「悪逆非道」――こう表現するしかない鹿児島県政の現状がある。川内原子力発電所(薩摩川内市)の再稼働を推し進めてきたのは鹿児島県の伊藤祐一郎知事。自らの主張を通すためには、県民の声など無視。権力を使って平然と弱者を圧殺し、我が物顔にふるまってきた政治家だ。
知事は、薩摩川内市を迷惑施設の集積地とでも思っているのか、薩摩藩時代から信仰の対象となってきたこの地域の象徴である霊峰「冠嶽」の裾野に、産業廃棄物の最終処分場まで建設している。「エコパークかごしま」と名付けられたこの処分場をめぐっては、公金を餌に、地元住民らが起こした建設差し止めの訴訟をつぶそうと画策していたことが判明したばかりだ。
しかし、愚行はこれだけにとどまらない。じつはエコパークかごしまが竣工するまでの過程で、伊藤県政による数々の暴力的行為が続けられてきている。(写真は会見する伊藤知事)
職員使って数の暴力
2011年10月4日早朝。川内原子力発電所の立地自治体である鹿児島県薩摩川内市の一角で、異様な光景が繰り広げられていた。場所は伊藤祐一郎知事が産業廃棄物の管理型最終処分場を建設することを決めた同市川永野の採石場跡。そこに「鹿児島県」の腕章を巻いた県職員ら数十人を先頭に、陸続と建設重機が登場。「腕章部隊」は次々と数を増し、あっという間に道路を埋め尽くした。
かれらの視線の先にいたのは「鹿児島県民」。それも高齢者を中心とする地元の住民たちだった。無言で威嚇する「腕章部隊」――。ハンドマイクを持った県職員が工事開始を宣言すると、周辺は一気に緊迫度を増した。
「腕章部隊」は隊列を作って住民らを包囲し、じりじりと圧迫。鹿児島県警の警察官まで登場し、集まった住民らに「検挙」をチラつかせる始末。結局この日、県に詳しい説明を求めてきた住民らは排除され、建設が強行されることになる。近年稀にみる「官」による住民圧殺劇だった。県民に対する奉仕者であるべき県庁職員を大量に動員し、暴力的な住民排除を命じたのが県政トップの伊藤祐一郎知事であることは言うまでもない。
恫喝
伊藤県政の手法は、暴力団顔負けだ。2011年9月のある日、鹿児島県の外郭団体「鹿児島県環境整備公社」の専務理事と県環境林務課廃棄物・リサイクル対策課の参事(いずれも当時)が、同県いちき串木野市にある高野山真言宗「冠嶽山鎭國寺頂峯院」(以下、「鎮国寺」)を訪れた。
対応した住職らに対し専務理事らが申し入れたのは、県が薩摩川内市川永野で建設を予定する産廃処分場への反対運動を止めることだった。鎮国寺は、処分場予定地となった「冠嶽」の山頂近くに位置しており、処分場建設に反対する住民らの支えになっていたのである。
処分場建設に疑問を投げかける寺側と、問答無用で建設を強行しようとする専務理事らの話は平行線をたどったが、このなかで、専務理事が次のような発言を行なっていた。
専務理事:これは理事長(注・鹿児島県環境整備公社の理事長の意)の方からですけれど、ご住職をはじめ役員の方々が、私どもとしては妨害の行為ということをですね、そういうことに参加される、あるいは信者の方をマイクロで動員されるということがありますと、行政としては宗教法人としての本来の活動としてちょっと問題があるのではないか、と。寺側:宗教法人に対してそういう圧力をかけるんですか?
専務理事:私どもは公社ですので、それはまた所轄行政の方で。
・・・中略・・・
寺側:今の話は録音していますよ。
専務理事:いいですよ。私どもは公社として、所轄行政庁の方にそういったことは問題がないのかということも伺いながら進めていかなければいけない。
要は脅しである。鎮国寺は、昭和61年に鹿児島県から宗教法人の認可を受けており、所轄庁は県。発言主の専務理事は県の職員で、理事長は副知事だ。つまり、“処分場建設工事に異を唱えるなら、県として宗教法人の認可を取り消すぞ”と恫喝していたのである。薩摩藩時代からの古刹を脅すことに、何の躊躇もなかったのである。ちなみに昨年12月、地元自治会に訴訟取り下げを迫ったのは、現在の公社専務理事。この職は、さしずめ暴君に使嗾される悪代官といったところだ。
ここで、鎮国寺の歴史について触れておきたい。紀元前3世紀、秦の始皇帝に仕えたとされる「徐福」が、不老不死の妙薬を求めて日本に来たという。いわゆる「徐福伝説」は、北海道から九州までの日本各地に残されており、鹿児島県いちき串木野市と薩摩川内市の境に位置する「冠嶽」は、徐福が冠を納めたことが口碑に残る霊山だ。山の中腹にある鎮国寺は、蘇我馬子が紀州熊野権現を勧請し、その別当寺として興隆寺を建立したことを起源としており、室町時代に現在の名称になったという高野山真言宗の名刹である。
薩摩藩・島津家が、この霊峰を深く信仰の対象としたことでも知られるが、明治の廃佛毀釈で廃寺となっていたものを、昭和58年に現山主の村井宏彰師が入山し、復興を果した。境内にある黄不動堂の屋上に、薩摩島津家の家紋である「丸に十の字」と熊野権現の象徴ともいえる「八咫烏」(やたがらす)が並んでいるのは、そうした縁起に由来するのだという(写真参照)。
霊峰の自然が貴重であることはもちろん、東嶽、中嶽、西嶽の三山をもって成る冠嶽全体は、薩摩川内市やいちき串木野市の貴重な水源地。処分場予定地の地元自治会や鎮国寺が、処分場建設に真っ向から反対してきたのは、歴史を知る土地の人間なら当然のことだったと言えよう。今月5日から3回に渡って報じてきた通り、処分場の事業主体である県環境整備公社が「地域支援金」を餌につぶそうとしたのは、地元自治会や鎮国寺などが中心となって起こした裁判だった。
権力とカネで弱い立場の住民を痛めつけて建設された「エコパークかごしま」(下の写真)は、悪逆非道の伊藤県政を象徴するモニュメントでもある。