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汚された「霊峰」 ― 鹿児島県知事の暴挙 ―

2015年3月17日 09:40

 国土面積37万8,000km2。その7割を森林が占めるため、この国は山を削り、海を埋め立てて生活面積を増やしてきた。戦後は、公共事業を経済発展の旗印に見立てたことで、巨額な税金を投じての乱開発が横行した。それと引き換えに失ったものは、緑豊かな自然であり、いにしえから守られてきた自然への畏怖である。鎮守の森をはじめ、住民の心の拠りどころとなってきた様々な環境が破壊された。
 とりわけ、海のそばに立地する「原発」と、主として山中に建設される「産廃処分場」は、自然破壊の象徴だ。原発の問題点については稿を譲るとして、ここでは、ある産廃処分場がもたらした現実について報告する。
 そこは、国内外から人が集う「霊峰」。富士山が信仰の対象として世界文化遺産に登録された一方で、鹿児島においては、知事の暴政が歴史的にも貴重な環境を奪おうとしている。

校歌に謳われた霊峰
冠岳をデザイン化した校章 2年ほど前、産廃処分場の取材途中に、鹿児島県いちき串木野市にある小さな小学校を訪れたことがあった。校名は「冠岳小学校」。地元住民が「お山」と呼んで崇拝してきた冠岳をその名に戴いた学び舎である。校舎には冠岳をデザイン化した校章が掲げられ(右の写真)、校歌は次のように謳う。

 千古くしふる冠の
 山ふところに抱かれて
 よい子育む学び舎は
 その名もゆかし冠小

 冠岳を含む連山は、同じ読みながら「冠嶽」と書き、区別されている。「冠岳」もしくは「冠嶽」を校歌に謳い込んだ学校は他にもある。

 そそりたつ 冠嶽の峰
 仰ぐ朝は
 自治の教えの 身にしみて
 その上の 歴史ははるか
 おお 豊かなる 文化きずかん
 永久に 栄光あれ 
(いちき串木野市立生冠中学校校歌)

 このほか、生福小学校、串木野中学校、永利小学校、川内南中学校といった周辺の小・中学校の校歌にも、「お山」が郷土の象徴として登場する。校歌の歌詞に詠まれるのはその地域のシンボル。いちき串木野市と薩摩川内市にまたがる冠嶽がどれほど周辺住民から愛され、崇拝されてきたかがうかがい知れよう。

 昨年暮れ、その地域の象徴である冠岳の中腹に、ゴミ捨て場―しかも環境汚染を招くことが確実な巨大施設が誕生した。「管理型」といわれる産業廃棄物の最終処分場「エコパークかごしま」である。

 薩摩川内市川永野では、産業廃棄物の管理型最終処分場「エコパークかごしま」の建設が進められてきた。事業主体は鹿児島県環境整備公社となっているが、実質的には県が行っている事業である。

処分場 採石場の跡地にある処分場の面積は36,800㎡。東京ドームグラウンド面積( 13,000m²)の約3倍の土地を「ゴミ捨て場」にし、稼動から15年間で60万立米の産廃を埋め立てる計画だ。総事業費は約100億円。巨額な公費を使って、郷土の歴史と自然を汚すのだという。この場所に産廃処分場を整備しようと決めたのは、伊藤祐一郎鹿児島県知事である。

 かつて訪れた冠岳小学校で、校内を走り回る子どもたちと話した時の記録が残っている。

 ――お山には大きなゴミ捨て場ができること知ってる?
「知らない」
「聞いたことない」
「できないでしょ」

 ――もしゴミ捨て場ができるとしたら?
「お山は大切なところ。やめて下さいとお願いする」
「みんなでやめるように頼む」
「やめろって怒る」

 冠岳に見守られて育ってきた子どもたちにとって、お山はまさに神聖な場所。産廃で汚されるなど思ってもみないことだった。処分場ができることさえ聞かされていなかったのである。県知事が、校歌に謳われたお山を汚すという現実を知った時の落胆はいかばかりか・・・・。伊藤知事は、郷土の先人たちが培ってきた歴史や文化、そして子ども達の心まで踏みにじったのである。

「冠嶽」
冠嶽 薩南屈指の霊峰「冠嶽」は、遥か中国へと続く東シナ海に面した町、鹿児島県いちき串木野市と薩摩川内市に重畳と聳える連山の総称。冠嶽のうち、ひときわ目立つ山々を「東嶽」、「中嶽」、「西嶽」(冠岳)といい、冠嶽三山として昔から人々の崇敬を集めて来た。

 三山のうち、もっとも高い西嶽の標高は516メートル。連なる山々を従え、山頂を天に聳え立たせている。四角い巨岩を頂く西嶽の姿を以て、人々はこの山を「冠岳」と呼ぶようになったのだという。

 東西に連なる東嶽、中嶽、西嶽には、それぞれ熊野権現を勧請した神社があり、冠嶽三所権現と呼ばれているほか、秦の使者「徐福」が訪れたとする伝説でも有名だ。近年は九州百名山のひとつにも指定され、登山に訪れる人の数も増えている。

『本藩の霊地の長也』――「薩摩国三国名勝図会」より
 鹿児島県といえば「丸に十の字」。薩摩藩の旧知行地である。その薩摩藩が編纂した「三国名勝図会」という文書がある。同書は、江戸時代後期、藩主島津斎興が家中に命じて編ませた地誌で、支配地だった薩摩、大隅などの地歴や名所が詳しく紹介されている。同書にはこうある。

《西獄の形、風折烏帽子に似たり、故だ冠獄と称す。隈之城佛生橋(比橋、隈之橋東手村にあり)の道路、及び市来薩摩波良瀬の提より是を望むに特に冠の状をなす。又一謹に孝元帝の御守、秦の徐福来て王冠を留めし故、冠獄と称す》…略…《本藩の霊地の長也》

 薩摩藩は、冠獄を薩摩・大隅・日向といった三国で一番の霊峰だと認めていていたのである。(下は、「薩摩国三国名勝図会」の写し。鹿児島大学附属図書館蔵。赤い矢印はHUNTER編集部)

三國名勝1 三國名勝2

三國名勝3

 冠嶽周辺には、徐福伝説が口碑に残る。約2200年前、秦の始皇帝の命で不老長寿の妙薬を求めに日本に来た徐福が、冠嶽の霊山性に心を打たれ、自らの冠を山頂に収めたという。この国に稲作文化を伝えたのは徐福だという説もあり、全国各地に「徐福伝説」が残っているが、地名にその名ごりを残すのは「冠嶽」のみである。

「冠嶽山鎭國寺頂峯院」
 冠嶽の霊山性を守り、永きにわたって法燈をともしてきたのが同山の山頂近くに位置する高野山真言宗「冠嶽山鎭國寺頂峯院」(以下、「鎮国寺」)だ。

1「冠嶽」.jpg 鎮国寺は、聖徳太子の父にあたる用明天皇のとき、蘇我馬子が紀州熊野権現を勧請し、その別当寺として「興隆寺」を建立したことに始まる。平安時代に王台宗「冠嶽峯院」となったあと、室町に至り名僧とうたわれた宗寿法印が東寺(教主護国寺)より下り、第24代住職となった。真言宗に改められたのはこの時からである。

 国を鎮護するという意味の名を持つことで分かる通り、鎮国寺は特別な存在だ。同じ名の寺は九州では他に1ヵ寺しかなく、全国でも例を見ないという。

20121102_h01-01-thumb-280x387-5622.jpg 鎮国寺を中心とした冠嶽と地元住民とのつながりは深い。1月の修正会(初護摩供養)に始まり、2月の星祭(節分会)、4月のかんむり嶽参り(徐福花冠祭り)、8月の観月会、そして11月秋のかんむり嶽参りまで、毎月のように行事を通じた交流がある。特に秋のかんむり嶽参りは、当日だけで3万人以上の人が訪れ、秋の風物詩となっている。

 冠嶽信仰の中心にある鎮国寺が、霊峰を産廃で汚されるのを黙って見ているはずがない。処分場計画が発表された平成19年以来約8年、寺は処分場の地元自治体などとともに、伊藤県政の横暴と闘ってきたのである。“処分場建設工事に異を唱えるなら、県として宗教法人の認可を取り消すぞ”と、県から恫喝されたこともある。しかし、霊峰を守るための戦いは法廷へと移り、地元自治会関係者ら224名が原告となっている「産業廃棄物処分場建設差止請求事件」など3件の訴訟が進行中である。

 一般市民が官を相手に裁判を続けるには、精神的にも資金的にも多大な犠牲が必要となる。それでも、脱落者がいないのは、住民と鎮国寺との間に「お山」を通じた固い絆があるからに他ならない。国内外に、“霊峰を守ろう”という、多くの賛同者がいることも原告団の支えとなっている。

癒着の犠牲
 本来、旧藩以来の歴史や文化を守るために先頭に立つべきは、県のトップである知事である。しかし、薩摩藩が《本藩の霊地の長也》として厚く信仰した冠嶽を、産廃処分場に指定したのは鹿児島県の伊藤知事。殿様自ら過去の歴史を壊そうというのだから、呆れるしかない。

 理由は、至極単純。経営難に陥っていた地場ゼネコンのボス的存在「植村組」が、自社グループ所有の土地を、県が計画していた産廃処分場の整備地にしてはどうかと持ちかけた。それが「冠嶽」の中腹にある現在の処分場整備地である。知事は、県内29か所の処分場候補地をろくに調べもせずに、植村組グループの土地を最適と断定。同グループから、二束三文の土地を買ったうえ、JV(特定建設工事共同企業体)の構成員となった植村組に仕事まで与えている。まるで“盗人に追い銭”。100億円を超える事業費は、植村組の救済に充てられた格好だ。薩摩藩が厚く信仰し、地元小・中学校の校歌にまで謳われた霊峰「冠嶽」は、知事と建設業界による癒着の犠牲となったのである。

 自然や文化を守り、次の世代に伝えていくのは現代に生きる者の使命だ。そこが旧藩以来の霊峰であるなら、なおのことである。鹿児島の知事がやっていることは、暴挙以外のなにものでもない。



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