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僭越ながら:論

憲法9条と集団的自衛権

2014年5月27日 10:10

 “自衛隊は軍隊か否か”、聞かれたあなたはどう答えるだろう。もう一つ、“自衛隊は「戦力」と言えるのか”という問いには……?
 日本国憲法第2章は、「戦争の放棄」を宣言したもので、一つの条文しか記されていない。第9条である。安倍政権が目論む集団的自衛権の行使容認には、歴代政権が積み重ねてきたこの9条の解釈変更が必要となり、いわゆる「解釈改憲」への国民の拒絶反応が、日増しに強くなっている。
 憲法9条をめぐっては、冒頭の問いに対する解釈が大きくいって二つ存在し、そのせめぎ合いの中から、現在の見方が定着したというべきだ。一方は「拡大的解釈」、他方を「制限的解釈」とでもしておこう。
 9条に関するそれぞれの立場による解釈を検証し、別の視点から集団的自衛権について考えてみたい。

9条に対する拡大的解釈と制限的解釈

【日本国憲法 第2章 第9条】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 もともと9条については、解釈によって二つのとらえ方がなされてきたと言えよう。9条は、≪国際紛争を解決する手段としては≫≪国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使≫を永久に放棄すると謳う。これについて、拡大的解釈の立場では、禁止されるのが侵略戦争だけで、自衛のための戦争及び武力行使は制限を受けないとする。
 一方、制限的解釈の立場からは、自衛のためであっても、国際紛争が前提に存在する以上、戦争や武力行使のすべてが禁止されるとの主張が展開される。

 次に、≪前項の目的≫が何を指すのか、についての見解にも相違が生まれる。拡大的に解釈すれば、保持しないと決めたのは侵略のための戦力。従って、自衛のための戦力は≪前項の目的を達成する≫ことを阻害するものではないとする。
 対して制限的解釈論者は、同条1項を受けての言葉であるため、すべての戦略は認められないと訴える。

 当然、拡大的解釈では自衛権に基づき≪戦力≫は保持できるとなり、制限的解釈になれば≪戦力≫は大小にかかわらず否定されるべきものとなる。≪交戦権≫については、戦時国際法上の交戦国の権利であり、認められるとするのが拡大的解釈。すべての戦争、武力衝突にともなうのが交戦権で、放棄されているというのが制限的な解釈だ。

 歴史的に戦争を見てみよう。古今東西、戦争目的を、公式に「侵略」であると断ったケースがあったのか。あるはずがない。ある時は「自衛」であり、またある時は他国の「解放」でありといった具合に、侵略目的以外の理屈を並べなければならなかったからだ。太平洋戦争は、その典型。アジアの解放、大東亜共栄圏、そうした言葉が氾濫したのが戦前、戦中で、戦後は助けたはずの国々から日本の行為を「侵略」だと厳しく指弾される事態となった。≪国際紛争を解決する手段としての戦争≫とあるが、それ以外の戦争など存在しないと考えるのが妥当だろう。ならば、この国に、いかなる場合であろうと≪国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使≫は存在する余地がない。

 ここで冒頭の質問の話に戻る。正直、自衛隊の装備、訓練を見て「これは軍隊ではない」と考える人は少ないだろう。子供は正直。試みに、小学生、中学生、高校生の男子一人ずつに「自衛隊は軍隊だと思うか」と聞いてみたが、小学生は「?」。中学生はあっさり「軍隊やろ」。高校生は少し考えてから「やっぱり、軍隊やろね」と答えてくれた。迷彩服、戦車、戦闘機、自衛艦……どうみても、自衛隊は「軍隊」なのである。

拡大解釈は政治の知恵
 素直に9条を読めば、むしろ制限的解釈の方がまともに聞こえる。しかし、その時々の国際情勢――とりわけ旧ソ連や中国の動きからこの国を守るため、自衛の備えをする必要があったことを忘れてはならない。日米安保条約は、米国からの要請でもあったが、日本にとっても渡りに船の自衛策。おかげで米国の傘の下、奇跡的な戦後の復興を成し遂げ、高度成長期を経て平和国家を築けたことは、疑いようのない事実である。その代償が米軍基地であり、沖縄の現状だが、もうひとつが自衛隊の前身である警察予備隊の創設だったことが広く知られている。制限的解釈の立場を採用すれば、自衛隊は認められない。そこでひねり出されたのが拡大解釈。政治の知恵だったと言うべきだろう。

 他国の侵略、襲撃に対応することが可能であるからには、自衛隊は紛れもなく「戦力」だ。これを「武力」ともいう。しかし、この国の為政者たちは、自衛隊を軍隊ではないと言い、戦力については自衛のための「必要最小限」のものだと説明してきた。拡大的解釈で、実情と9条とに合理性を持たせたということだ。現実を見れば、これが間違っていたとは思えない。

 日米安保や自衛隊の存在が戦後の平和と安定を支えてきたと考えるなら、制限的解釈には現実との乖離という矛盾がつきまとう。拡大解釈が、いささか牽強付会の説であると感じつつも国民がこれを容認してきたのは、目の前の平和を守っているのが米国と、その米国が望んだ自衛のための軍備=自衛隊なのだと分かっていたからに他ならない。政治の知恵と、現実を直視する国民のバランス感覚が、この国に繁栄をもたらしたと言っても過言ではあるまい。

 かつての自民党に高い評価が与えられるのは、拡大解釈に歯止めをかけてきたことだ。歴代内閣は、「集団的自衛権は有しているが、憲法上、実際の行使はできない」とする解釈を守り通してきたのである。これも政治の知恵だろう。そして、一貫したこの姿勢が、国民の安心、他国からの共感につながってきた。この事実に異論を差し挟む余地はない。

安倍の正体
 さて、安倍晋三である。この希代の極右政治家は、歴代政権が無理な拡大的解釈を選択してまで守り通してきた憲法9条と自衛隊の共存関係に、ひびを入れてしまった。集団的自衛権の行使を容認するため、憲法解釈を変えるということは、即ち、先人たちの知恵によって微妙なバランスを保ってきた、憲法9条と自衛隊の関係を崩すことを意味している。これが安倍のいう「戦後レジームからの脱却」であるなら、日本を滅ぼす暴論であると断じざるを得ない。集団的自衛権の行使を認めれば、その先にあるのは戦争への不安と、諸外国からの不信だ。

 集団的自衛権の行使容認を叫ぶ論者に通底しているのは、武力には武力、つまり“目には目を、歯には歯を”をいう考え方だ。安倍は、 集団的自衛権の行使=武力が抑止力になるとまで断言している。憲法9条は≪武力による威嚇≫を禁じており、これは解釈を変えてどうにかなる問題ではない。

 憲法第99条は、次のように規定している。
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ
 安倍晋三は、この条文を知らないらしい。



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