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なくならぬ子どもの自殺とその背景

2013年2月 7日 10:00

 犬が人に噛みついてもニュースにはならないが、人間が犬に噛みつけばニュースになる。それが日常茶飯の出来事ではない「事件」と見られるからだが、報道する側も、視聴者・読者も、自分が事件の主人公になることはないとの前提があってこそ成り立つ構図だ。

 昨年来、いじめ、体罰によって子どもの命が奪われるという「事件」がたて続けに起きたが、この国の社会は、大騒ぎしながらも、ひとつひとつの問題をどこか他人事として片付けてはいないだろうか。

なくならない子どもの自殺
 かつてこの国には、大切な子どもの命が病気や事故以外の原因で失われることなどなかった。時代が変わったと言えばそれまでだが、平成の世になる前後から、子どもが自ら命を絶つ「事件」が増えた。

 子どもがいじめを苦にして自殺するという痛ましい事件の嚆矢となったのは、昭和61年に東京都中野区の中学校で起きた生徒の自殺事件だった。教師も加担しての「葬式ごっこ」や、「生き地獄になっちゃうよ」という遺書の文言を忘れることができない。

 あれから27年。子どもの自殺はあとを絶たず、平成18年に福岡県内の中学生が、“いじめ”にあって自らの人生に終わりを告げたほか、翌19年には兵庫県の高校生が、やはり“いじめ”が原因で校舎から飛び降り自殺した。ほかにも例を挙げればきりがないほどだ。
 そして平成23年、滋賀県大津市の中学生が“いじめ”を受けて自殺。昨年12月には大阪市立桜宮高校でバスケットボール部の男子生徒が、男性顧問から暴行を受けたことが原因で自殺した。

 子どもの自殺は非日常の出来事―つまり「事件」であるから、報道は過熱する。その度にいじめや体罰について議論が交わされ、対策が講じられてきたはずなのだが、教育現場を取り巻く状況は、中野区の生徒自殺事件以来、何も変わっていない。子どもの自殺が一向になくならないのは、議論や報道が一過性で終わってきた証しであろう。
 毎日のように起きる「事件」が、子どもの命に関わる問題を押し流している現状がそこに在る。

丸刈りの波紋
 話は変わるが、芸能界を席捲してきたAKB48のメンバーのひとりが、男女交際の発覚がもとで頭を丸刈りにし、ネット上で謝罪するという「事件」が起きた。賛否をめぐる議論がかまびすしいが、いじめや体罰による事件と、どこか通低しているように思えてならない。

 丸刈りにして謝罪するなどという行為は、男社会にあってもよほどの失態を犯さない限りお目にかかる機会はない。スポーツの世界では、“負けて丸刈り”という話を聞かないでもないが、ことが女性―しかも超がつく人気タレントとなると実例をひも解くことなどできないだろう。

 AKB48という集団のルールを破った彼女が、なぜ“丸刈り”にすることを思い立ったのか定かではないが、映像をネット上に垂れ流させた時点では、間違いなく集団を管理する立場の人間の意思が働いていたはずだ。だとすれば、それは体罰か、ある種のいじめに近い所業ではないのだろうか(裏に営業面でのにおいがする分、タチが悪いとも言えるが)。

他人事になってはいないか?
 一方、男女交際禁止というルールを売りものにするAKB48を支持してきたのは、テレビ(パソコン、スマートフォンというケースも多いだろうが)の画面越しに彼女らを見ている視聴者であることを忘れてはなるまい。
 いじめや体罰を助長してきたのは、紛れもなくこの国の社会であり、この国の大人たちである。「事件」が起きるたびに過剰な報道や議論が行われながら、何も変わらないということは、対策が社会全体の取り組みに至っていなかったことを示している。
 じつは大多数が、テレビを見ている視聴者の立場―すなわち他人事として「事件」を見てきたということだろう。

 自殺したこども達の遺族にとって、目の前の出来事は「不幸」でしかない。それを大多数は「事件」として見る。この違いは如何ともしがたく、社会全体が自分の身近なこととして子ども達の自殺を受け入れてきたわけではない。
 いじめや体罰がなくならないのは、ひとつの命が消えたことを、自分の身に置き換えて考えていないからに他ならない。
 場合によっては、「そうは言っても」「自分の子に限って」などという言い訳をしてはいないか。

 部活動でスポーツをしている子どもを持つ親御さんたちに話を聞いてみると、指導者の体罰を容認する空気があることが分かる。

-「厳しく指導してもらわないと強くはならない」(高校バスケ部の子どもを持つ母親)。
-「愛の鞭なら仕方がないだろう。なんでもかんでも暴力と断定して悪と決め付けるのはよくない」(中学野球部の子どもを持つ父親)。
-「うちの学校の体罰といってもゲンコツ程度。問題ない」(高校バレー部の子どもを持つ母親)。

 体罰が原因で自殺する生徒が出たことを、自分のことに置き換えるのを拒否している親たちの姿が浮かび上がる。他人事として片付けようという意図があるのは確かで、これでは体罰はなくならない。

 いじめについて、何人かの教師に聞いてみたが、こちらも同様の反応だ。

-「うちの学校に、自殺を招くようないじめはない。早い段階で対応しているから」(40代・男性教師)。
-「カウンセリングの態勢も整っており、子どもたちの間にいじめの前兆があれば、早い段階で指導している。大きな問題は起きていない」(50代・女性教師)
-「多少のいじめはあるが、自殺を招くような陰湿なものではない。子どもの世界では、いじめとおふざけの境が分からない場合もあり、指導を通じて子ども達を守っていくことは大切」(50代・男性教師)

 問題の当事者であるはずの親や教師でさえ、いじめや体罰による子どもの自殺を他人事として処理したがっているのである。そこには、絶対にいじめや体罰を根絶しようとする意気込みは感じられない。すべての日本人がそうだとは言わないが、子育てに関係がない人たちにとっては、なおさらだろう。

求められる大人の覚悟
 いじめや体罰といった言葉は、大人が勝手にこしらえた逃げ道でしかない。しょせんは「暴力」なのであって、教育現場だから別モノという理屈は子どもには通用しない。
 根絶させるためには、いかなる暴力も許さないという社会全体の認識が必要なはずだが、こうした情勢にないのが現在の日本の社会だ。

 政治、行政、そして報道が、垣根を越えていじめ・体罰の根絶に取り組まない限り、子どもの自殺はなくならないだろう。なにより、私たち一人一人が、子どもを守るという強い使命感をもつことが必要で、求められているのは大人たちの覚悟なのだ。
 子どもの自殺は、人が犬を噛んだなどという滑稽話とはわけが違う。



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