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衰弱したジャーナリズム(上)―「知る権利」の在りか―

2013年1月28日 09:10

 マスコミ不信はいまに始まった話ではない。しかし、このところの“地に堕ちた”としか言いようのない大手メディアの報道には、いささか苦言を呈したくなった。
 報道の使命とは、権力を監視し、その濫用を防ぐことにあるはずだ。だが、この国の大手メディアは、公正・中立や客観を装いながら、ともすれば権力側の広報の役割を果たしてきた。
 他方で、叩くべき相手ではないはずの犯罪被害者や、事件・事故の被害者遺族に対し、どれだけペンの暴力を振るってきたことだろう。
 「我こそが正義」。そうした驕りが、この国のジャーナリズムを衰弱させてはいないか―まずは、暴走する大手メディアの盾となっている「知る権利」の在りかについて考えてみたい。

アルジェリア人質事件―繰り返された被害者家族への傲慢取材
 アルジェリア南東部イナメナスの天然ガス施設で起きた人質事件の結果、37人の犠牲者が出た。このうち日本人の死者は10人。いずれもプラント建設会社「日揮」の関係者だ。犠牲者の遺体は、25日から26日にかけて羽田に到着したが、その時点までの国内メディアの報道姿勢には、正直、うんざりさせられた。

 アルジェリア人質事件の報道に関しては、ふたつの問題が提起された。
 まず、事件に関する報道の過程で、犠牲者家族への配慮が欠けたとの指摘である。賛否をめぐる議論の対象となったのは、犠牲者の氏名を実名で報じることばかりを急いだ大手メディアの姿勢である。

 1月22日、朝日新聞は朝刊に犠牲者の実名と写真を掲載。これを受けた格好で他のメディアも次々に実名報道に踏み切った。被害者の実名報道に “遺族の声”が付きものとなったのは言うまでもない。さらには、被害者を特定するまでの過程で、関係者から強引に話を聞きだしたケースもあったという。
 遺族の気持ちを斟酌することなく、レポーターが無遠慮にマイクを向け、記者がしたり顔でメモを取る―事件・事故の度に幾度も繰り返されてきた光景だ。

 日ごろ、人権がどうのとやかましく騒ぎ立てるくせに、事件・事故の取材では、そうした主張をかなぐり捨ててしまうのが大手メディアの通例だ。今回も、被害者家族を無視して目先のスクープに狂奔する、大手メディアの横暴が繰り返されたことに違いはない。
 懲りない体質が、報道への信頼を奪っていることに、まだ気付かないのだろうか。

実名報道の陳腐な言い訳
 次に挙げられるのは、“被害者の実名報道”における言い訳のお粗末さである。

 朝日新聞による報道の翌日、系列局・テレビ朝日 の「報道ステーション」では、古館一郎キャスターが実名報道に至った経緯を次のように説明した。
《ご遺族は実名を伏せての報道を希望しましたが、私共は事件の重大さ、亡くなった方の名誉のため、実名で報道させていただきます》。
 しかし、《事件の重大さ》や《亡くなった方の名誉のため》という実名報道の言い訳は、あまりに手前勝手なものだろう。

 事件によって、邦人をはじめ多くの犠牲者が出たことは間違いない事実だ。尊い人命が奪われている上、海外で活動する企業も多く、事件が重大であることは誰でも理解できる。
 しかし、重大事件というだけで、遺族の思いが無視されていいはずがない。実名報道がなければ、事件の真相が解明できないという状況でもない。残された被害者家族の思いが二の次にされる必然性は皆無なのだ。

 天然ガス施設を襲撃した武装勢力の実態や目的、政府軍部隊が武力制圧に至った経過などは未解明。さらに、それぞれの犠牲者が、どのような状況で命を奪われたのかについて、事実関係さえ分かっていない。
 アルジェリアの国情が不安定なため、情報が錯綜して混乱が生じていたのは分かるが、書くべきネタがないからといって、被害者家族に負担を押し付ける形の報道は間違いなのである。

 《亡くなった方の名誉のため》という実名報道への理由付けは、さらにお粗末である。
 事件の性質や経過から見て、犠牲者が名誉を傷つけられるような心配は、微塵もないケースだ。異国の地で日本の技術力を広めようとしていた日揮の関係者は、誇りでこそあれ名誉に関わるようなことは何一つしていない。先走り報道で守るべきものなど何もなかったということだ。もちろん、実名報道の言い訳にはならない。
 かつて、これほど陳腐で手前勝手な言い分を、報道の目的にした例があっただろうか。

 実名報道の口火を切った形の朝日新聞は、24日朝刊の中で《実名を報じることで人としての尊厳や存在感が伝わり、報道に真実性を担保する重要な手がかりになる》と、事件報道での報道原則を記した上で、東京本社社会部長の次のような談話を掲載している。
《今回の事件でも実名報道を原則としつつ、現場では遺族や関係者へ配慮して取材を重ねている。読者からの意見や批判にも耳を傾け、『何が起きていたのか』を掘り起こす作業を悩みながら進めている》。
 これが実名報道批判に対する朝日の結論ということのようだが、説得力のある主張とは、到底思えない。

 《遺族や関係者への配慮》があったのなら、遺族が待ったをかけたはずの実名報道は控えるべきだ。
 既報の段階で《読者からの意見や批判にも耳を傾け》る、というのでは、書きとばしたと言われてもおかしくないだろう。“やり得”を許すほど、読者は甘くない。
 いろいろ並べ立てられてはいるが、他メディアの主張(言い訳と言った方が妥当だが)も五十歩百歩で、皮相浅薄としか言いようがないものばかりだった。

 実名報道への批判が噴き出たことは、各社の報道内容が、「これなら実名もやむなし」という説得力を持っていなかった証左でもある。
 被害者の氏名を報道することで、人質事件の実相を浮き上がらせる効果でもあったのならまだしも、前述したように真相解明は緒についたばかりだ。信じられないことに、国ごとの被害者の数さえ報じられていないのが現状である。
 そうした中、国内メディアの多くの記者たちは、ただ目の前に起きた事件を追い、被害者の特定と遺族のコメント取りに血眼になっていたに過ぎない。

 被害者家族の悲しみや不安は当然だ。しかし、政府が犠牲者の氏名さえ公表していない段階で、周辺の人たちのコメントや、ましてや被害者本人の氏名をいち早く報道する必要があるのだろうか。
 なにより、テレビ画面の向こう側にいる視聴者や新聞の読者が、被害者の名前や年齢を知りたがっていたとは思えない。

 今回のケースは、震災や航空機事故の場合とは状況がまったく違う。知人の消息を気遣う人たちがいたとしても、確認を求める対象(ご家族など)が国内に居たわけで、安否確認を報道に頼る必要などなかったのだ。
 加えて、政府や日揮側が、真相を隠す必要などない事例であることを考えれば、正式公表前の実名報道には何の意味もなかったことになる。 

「知る権利」の在りか
 ジャーナリズムにとって最後の砦は「知る権利」である。今回の実名報道についても、「国民の知る権利に応えた」と言い出しかねない。だが、一連の流れを見ていると、どうやら「知る権利」が国民のためではなく、大手メディアのために存在していることに気付かされる。
 この国の大手メディアは、「知る権利」を隠れ蓑に、自分たちの逸脱した行為を正当化しているのではないだろうか。だとすれば、国民の手の中にあるはずの「知る権利」は、いつのまにか大手メディアの懐に納まっていたことになる。

 一部の被害者家族、そして被害者企業である日揮側が実名報道に難色を示していた以上、そこを越える法的な根拠も、報道の必要性も皆無だ。被害者の氏名が報道されたからといって、人質事件の真相が早期に解明されるわけでもない。
 報道各社の記者たちの頭にあったのは、「他社より少しでも早く被害者の氏名や顔社員を入手し、紙面(あるいは画面)を飾ること」だったとしか思えないが、果たしてそれで、本当にジャーナリズムの使命を果たしていると言えるのか。答えが否であることは、この国における報道不信が如実に示しているはずだ。
 「知る権利」は、間違った使われ方をしてはいないか?



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