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僭越ながら:論

「公(おおやけ)」の喪失

2012年8月 9日 10:50

 昨年3月11日の東日本大震災以来、「絆」の一文字がこの国の象徴となった。語源をたどれば「しばる」に行き当たってしまうのだが、人と人との結びつきが、復興に向けた動きを後押ししていることは紛れもない事実だ。

 一方、日増しに死語となりつつある文字がある。「公(おおやけ)」の一語である。公とは国家、公共といった意味をもっており、対極にあるのが「私(わたくし)」だ。「公」が私欲や一部の利益を排した存在であるからこそ、税金や国の未来を委ねることが容認されるのだが、この国の政治や行政は、すでに本来在るべき姿を見失っているとしか思えない。
 以下、「公」について。

民・自・公 もはや「公党」ではない
 消費増税をめぐる国会の動きは、国の未来ではなく各政党の議席数をかけての政争に他ならない。
 マニフェストだけではなく、東日本大震災の復興やデフレ脱却といった重要課題を放り出して、増税にのみ政治生命をかけるという愚かな首相の下、選挙恐怖症に陥った民主党議員たちの右往左往が続く。
 野田首相は8日の同党両院議員総会で、「(解散の時期を)明示することはできない」と言明したが、数時間後に谷垣自民党総裁と密談。その後、公明党の山口代表らを入れた3党首会談では、「近いうちの解散」を約束してしまった。
 「近いうち」がどの程度先の時点を指すのか分からないが、解散を約束したことに変わりはあるまい。
 解散時期を示さなければ内閣不信任案や問責決議を提出するとしていた自民党がピタリと動きを止めたのは、首相から早期解散への担保を取ったからと見る方が自然だからだ。
 民主党のお家芸となった、言葉の上でのごまかし・まやかしが最後まで続いており、「公」であることが認められる前提である「信頼」が、党の内外で失われているのである。

 野党第一党の自民はさらにお粗末だ。衆院で増税法案に賛成しておきながら、解散総選挙を迫るために同法案を取引の道具に利用。3党合意の順守を声高に叫びながら、解散しなければ参院での採決に応じないと言い出した。
 支離滅裂な対応は党内中堅・若手の強硬論に押されてのことだが、国や国民のためという視点は皆無である。

 かたや自民党の長老議員たちは、増税法案の採決を優先するよう谷垣総裁に迫っていた。こちらは増税を実現して200兆円に上る公共事業費を手中に納めようとの魂胆が見え見えだ。解散を延ばして秋の予算編成に一枚加わろうという意図も透けて見える。
 「国土強靭化」などと称しているが、しょせん強靭化されるのは土建屋政治家の懐と後援会組織というのが関の山だろう。
 いずれにしろ党利党略、私利私欲のためであることは明らかで、国の未来を真剣に考えた末の行動ではない。
 それにしても谷垣自民党、「近い将来」が「近いうち」に変わっただけで、こうも簡単にそれまでの主張をひるがえすことに、恥じ入る気持ちはないのだろうか。

 民主、自民、公明がこだわってきたのは「3党合意」という呉越で仕立てた泥舟だ。民主党政権の舵取りは財務省であり、自民党が目指す岸は権力とカネだ。国民は各党の真意を見抜いており、ために各種世論調査での支持率はいずれの党も10%台にとどまっている。
 一定の法的要件を満たした政党を「公党」と呼んできたが、民・自・公の3党に「公」を名乗る資格があるとは思えない。次の総選挙、3党の代議士たちの船はあっけなく沈む運命にある。

「3党合意」の実態
 民主、自民、公明が錦の御旗のごとく掲げてきた「3党合意」だが、その実態は密室談合による決め事に過ぎない。
 合意内容に関する各党の解釈が違っていたことでも分かるとおり、増税法案を隠れ蓑に各政党の目先の利益を覆い隠しただけのこと。結局、増税によって苦しむのは国民だ。
 “ツケは弱い者へ”という悪しき為政者の伝統を踏襲しつつ、それぞれの利を得ようという発想だったのである。
 国民の声ではなく「3党合意」を重視した時点で、民・自・公の政治家たちには「公」を名乗る資格がなくなっていたと見なすべきだろう。

3.11で終わっていた「公」
 国や電力会社(公益企業であるからこちらも「公」の存在だろう)は、昨年3月11日に起きた福島第一原発の事故の時点で、公の立場を失っている。

 なにせそれまでの「日本の原発は安全」とする主張が、真っ赤な嘘だったことが証明されてしまったのだから、どう言いつくろっても後の祭り。もはや原子力ムラの言い分を信じる国民は2割にも満たず、ここでも「公」であるための前提となる信頼関係が崩れてしまっている。
 安全対策が不十分なまま、大飯原発の再稼働に踏み切った政権の姿勢が生んだのは、不信と怒りだけだ。

 事実上国有化されたはずの東京電力は、福島第一の事故の映像記録を出し渋ったあげく、記録そのものを改ざんし、都合の悪いところは隠蔽してしまった。これを容認した国も、東電と同罪なのである。
 基本的な義務さえ果たそうとしない国や電力会社に、「公」の資格があるはずがない。

教育現場でも
 昨年10月、滋賀県大津市で一人の中学生が自らの命を絶つという痛ましい事件が起こった。今年に入っての報道を見れば、原因が“いじめ”であったことは疑う余地もないが、この件をめぐる中学校側や市教委の姿勢は、とうてい「公」と呼べるものではなかった。

 「いじめではなく喧嘩」→「いじめと自殺の因果関係は不明」。主張が変転した理由は、市教委が隠蔽していた生徒へのアンケート結果の内容が明かされたからだ。
 最終的には、男子生徒の両親が大津市やいじめを行った元同級生3人とその保護者に損害賠償を求めた裁判の中で、市側がいじめと自殺の因果関係を認めるに至っている。
 学校側、市教委、いずれの関係者も保身や組織防衛のために、理不尽な主張ばかりを重ねてきたのだ。このどこが「公」なのか。

地方自治体の惨状 
 地方分権の受け皿となる地方自治体の惨状も見るに耐えない。
 鹿児島県では、地元住民の声を黙殺し、伊藤祐一郎知事の独断で100億円の産廃処分場建設を強行したり、必要のない県営住宅の建設計画を打ち上げたりと、やりたい放題。
 あげく、知事の親友が建設を進めた粒子線がんの治療施設に対して50億円を超える公費投入の便宜を図り、100万円単位の政治資金を貰うなどという暴挙がまかり通っている。
 もともと、この知事の辞書には「公」という文字がなかったのだろう。

 原発立地自治体の首長たちによる、「公人」の立場をかなぐり捨てた所業の数々も明らかになっている。
 玄海原発がある佐賀県玄海町の町長によるファミリー企業を使ったカネ儲け、やらせメール事件が暴いた佐賀県知事と九電の密接な関係・・・。私利私欲だけが優先される現状には、「公」とは無縁の腐臭が漂う。

「絆」
 「政治には何も期待できない」、「国は信じられない」。そうした声が加速度的に増えているのは、「公」の存在が否定されていることを示している。
 「信なくば立たず」であることは、政治家や役人がもっとも自覚すべきなのだが、言葉の上でのごまかしに長けたいまの権力者たちは、現実を理解しようとすらしていない。
 だが、政治や行政が国民との間に信頼の「絆」を結ばない限り、この国の未来は拓けない。“しばりつけてでも”、やらせるしかないが・・・。



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