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僭越ながら:論

 虚ろな国民主権

2012年3月16日 09:25

 日本国憲法の前文には《ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する》と記されている。我が国のあるべき姿を規定した憲法の全文に謳っている以上、国民が主権者であることは間違いないはずなのだが、果たして現実はそうなっているだろうか。

 原発、増税、TPP。どれも国民にとっては将来に直結する重い課題である。とりわけ原発は、私たちだけでなくその子孫の命まで脅かす存在であることが認識されたはずだが、相変わらず原子力行政についての決定権を握っているのは官僚と政治家と電力会社。一部の権力者が恣意的に方針を決める状況は変わっていない。

 戦後のこの国において、本当に主権が国民にあったとは思えないのだが・・・。

原発再稼動 ― 権限なき大多数の主権者
 東日本大震災からちょうど1年の今月11日、野田首相は全国で休止中の原発を再稼動させることへの決意を強調。13日には政府が関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を認める手続きに入った。
 
 地元福井県の知事は慎重な構えを崩していないが、多くの立地自治体の事業は異なっている。
 例えば、九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)や同川内原発(鹿児島県薩摩川内市)を抱える自治体の首長たちは、事業者である九電とべったりである上、原発推進を至上命題としてきた建設業界などに支えられて当選を果たしてきたという経緯がある。この連中が再稼動に反対するとは思えない。
 「やらせメール」の発端を作ったり、ファミリー企業に町の事業を独占させて甘い汁を吸うなどといった悪行が白日の下にさらされたにもかかわらず、原発再稼動の鍵を握っているのは依然として彼らなのだ。
 
 国は地元の意向を尊重すると言うが、この場合の「地元」とは立地自治体の首長を指す。住民がどう思っていようが、首長が"折れて"しまえば、原発は再び営業運転を開始するのである。
 
 理不尽としか言いようがないのは、電源立地交付金で潤ってきた原発の地元自治体にのみ将来への選択権が与えられ、何の恩恵にも与っていない他の自治体は指をくわえて見ているしかないという現実だ。
 国民の6割以上が再稼動に反対しているにもかかわらず、原発立地自治体の首長にしか再稼動を判断する権限がないというのは、明らかに法の下の平等にも反している。
 
 もっとも法治国家であるはずのこの国の原発行政が、「無法」に支えられていることを忘れてはならない。
 国や電力会社は、原発再稼動に関して立地自治体の同意があれば認められるとしてきたが、こうしたルールを定めた法律など存在しない。原子力ムラが勝手に決めた再稼動への手順を、大手マスコミを通じて国民に信じ込ませているだけなのだ。「法治国家」が聞いて呆れる。
 
 いったん原発に事故が起きた場合に被害を受けることが確実な地域の住民が、原発再稼動に賛否を下す権限がないなどというばかげた仕組みが許されていいはずがない。しかし、現実に大多数の人は、原発再稼動に反対はできても電力会社や国の方針を止めることなどできないのである。
 
 国の未来を左右する原発行政の、どこに主権者であるはずの国民の意思が反映されているのか・・・?

消費増税もまた同じ
 国会で議論されている「消費増税」に関しても同じだ。財務省にコントロールされる首相が公約に反して言い出した国民への負担増だが、国会を通ってしまえば国民は否応なしに従うしかない。ここでも主権者であるはずの国民の意向は無視される。

 戦後の日本で、一度でも国民主権を実感させることがあったのかどうかあやしいもので、国の方針の大半は霞ヶ関とその走狗である一部の政治家が決定権を握ってきたとしか思えない。政治家も特別職とはいえ公務員であり、まさに「公務員主権」がこの国の実相なのかもしれない。
 
 こうした状況は、憲法前文に《正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し》と記されているため、国民が選挙で選んだ政治家に決定権を与えていることに起因しているが、彼らが「代表」たるに相応しいかどうかは、現状の「支持政党なし」層の増加が答えを示している。
 
 ただし、始末におえないのは、こうした無能な政治家を選んだのが、私たち国民であるということだ。この国の議会制民主主義が機能していないため、やむを得ない仕儀とは言え、どうにもやりきれない。
 小泉純一郎氏以後の安倍、福田、麻生、政権交代をはさんで鳩山、菅、野田。主権者である国民は頼みもしていないのに勝手に首相の首をすげ替え、これまた頼みもしていない施策を押し付けてくる。
 野田首相に至っては、国民との約束(マニフェスト)を反故にして、やれ増税だTPPだと言い出す始末。まるで主権が霞ヶ関にあるかのような振る舞いだ。
 こうなると「国民主権」という言葉は無形文化財と化してしまう。

地方も末期的
 一方、地方でも同じようなことが繰り返されている。
 福岡市ではアナウンサーあがりのお調子者が市長になった途端、市役所の改装やら2階建てバスの購入に惜しげもなく億単位の税金を投入。足りない分は市民の知らないうちに借金していたというのだから開いた口がふさがらない。
 
 このタレント市長さん、情報開示が一番大事だと言って市長に当選しておきながら、自らの離婚は隠すわ友人を市の顧問にして扶持を与えるわとやりたい放題。
 あげく、市内中心部から遠い人工島に「体育館」を建設するという計画の中身はまるで不透明という有様だ。
 体育館整備にかかる事業費は数百億円にのぼると見られるが、厳しい財政事情などお構いなしの愚行が「市の方針」の一言で決められていく。ここでも主権者である福岡市民は置き去りのままだ。
 
 九州の最南端である鹿児島県の状況はさらに末期的である。総務省の高級官僚から天下った知事が、県民の反対を無視して税金で産業廃棄物最終処分場(薩摩川内市)や県営住宅(鹿児島市松陽台)を造るというが、いずれも肝心の地元住民の賛同さえ得られていない。
 もっとも、経過をたどれば、賛同を得るつもりなどさらさらなかったことが歴然としており、知事と県議会与党、建設業界という「鉄のトライアングル」がスクラムを組んで住民を弾圧する構図は異常としか言いようがない。国民主権どころか、「利権屋主権」がはびこる状態なのだ。

大阪市長と国民主権
 ところで、このところ大阪の市長に大きな注目が集まっているが、この人の人気と国民主権とは、密接な関係にあるように思えてならない。
 
 騒ぐばかりで何も決められず、状況を悪化させるだけの既成政党に愛想を尽かした国民が、歯切れ良く国を根本から変えると断言して行動する大阪市長に期待したくなる気持ちは、痛いほど分かる。 
 ただ、あまりに強すぎるリーダーを求めるということは、一定の独裁的手法を許すということにほかならない。言い換えれば、国民にあるはずの主権を強いリーダーに委ねるようなものではないのか。
 
 教育現場にまで強権を発動する大阪市長の手法に、ある種のあやうさを感じていたのだが、「船中八策」を持ち出すに及んでがっかりしたというのが正直なところだ。
 国民的な人気を誇る坂本龍馬が書いたと言われる「船中八策」は、国の在るべき姿を示したもので、公約とかマニフェストといった類のものではない。

 大阪市長の行動力と発想には大いに期待したいところだが、彼が自らの国家観を明確に示したことはなく、その政治手法だけが話題を集めてきたにすぎない。
 マスコミに踊らされ、自民党や民主党に全権委任した結果この国がどうなったのか、改めて振り返る必要があるはずだ。

 国の行政と地方政治の現場を熟知するある識者はこう話す。
「そもそも人(GHQ)からもらった憲法。『国民主権』も含めて、メンテナンスに手間とカネをかけなければならないはず。世界の歴史を見れば、民主主義を育むことにどれだけの血とカネと時間を費やしてきたことか。日本も、戦後のある時期まで憲法を磨こうと努力したが、いつの間にかぬるま湯に浸かる状態になってしまっている。選挙に行かない人が増え続けてきたことでも分かるが、政治家の育て方にも興味を持たなくなった。もう一度『国民主権』とは何か、真剣に考えるべきだ。メンテナンスは私たち国民がやるべきことで、誰かをあてにするという話ではない」。
 
 たしかに、虚ろな国民主権を嘆くことが本稿の狙いではない。



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