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「往生際」 ~失われたリーダーの要件~

2011年9月15日 10:10

 トップリーダーの出所進退への判断がいかに大切か。迷惑千万なことながら、ここ数年、それを教えてくれたのは何人かの総理大臣だった。
 麻生太郎元総理は解散時期を引き延ばしたあげく、総選挙で惨敗し自民党の下野を招いたし、菅直人前総理は辞めると言っておきながら居座りつづけ、この国に不信と停滞をもたらした。
 上に立つ人間の「往生際」は、組織の命運にかかわるほどの重要さを秘めている。
 そうした意味をもって眺めると、九州の政界や経済界のリーダーと呼ばれる方々の「往生際」の悪さは目に余るものがある。
  
佐賀県知事
 gennpatu 202.jpg九州電力による「やらせメール」をめぐっての騒ぎには、いささかウンザリしてきた。
 古川康佐賀県知事は、自らの発言がやらせを誘発したかどうかにばかりこだわって、「真意が違う」だの「内容が違う」だのと言い逃れに終始しているが、知事が「やらせメール」の発端となった原発説明番組の直前という微妙な時期に九電幹部と会談したことは事実だ。
しかも、会談は非公式で、県庁ではなく知事公舎でこっそり会っている。

 やらせを要請したのかどうかは別にして、説明番組出演者について九電側に漏らしたのは間違いではなかろう。それだけでも知事失格ではないのか。

 政治家は、疑いを持たれるに足る言動が明らかになった時点でその責めを負うべきで、そうでなければ政治への信頼など生まれるはずがない。"信なくば立たず"である。
 
 古川知事の昔を知る人間によれば、彼は若い頃から政治家になることを公言していたという。
 権力志向を隠すためか、芝居がかった物言いをする政治家だと見てきたが、就任以来やったことといえば、改革派を装いながらプルサーマルを推進し、長崎新幹線を推し進めるなど、財界と自民党の都合にあわせた動きばかりだ。
 初当選時に、九電やJR九州が懸命に支援したという地元政界関係者の話に、改めて合点がいった次第である。
 
 佐賀県民の懐が深すぎるせいか一向に「辞めろ」の声は聞こえてこない。古川知事の「往生際」の悪さに醜さを感じるのは、「葉隠」の精神が佐賀県の誇りだとばかり思い込んでいた私だけなのだろうか・・・。

鹿児島県知事
 gennpatu 019.jpg原発立地県の知事が原発マネーに汚染されている実態については、これまで何度も報じてきた。川内原発を抱える鹿児島県では、伊藤祐一郎知事が問題視される献金を受け取っていたことがわかっている。 
 
 伊藤知事の「往生際」の悪さは、平成20年の知事選で、同県が多額の補助金を支給する財団の理事長から寄附金として100万円を受け取っていたことが報じられ、会見に臨んだ時に遺憾なく発揮された。
 
 問題の100万円が個人からの寄附で、政治資金規正法上も公職選挙法上も問題がないから、道義的責任も生じないと強弁したのである。
 総務省の役人時代に、公職選挙法の改正を手がけたことを自己弁護の補強にあてたらしいが、その後、自身の選挙運動費用収支報告に大量の間違いがあったことや、県と利害関係を有する町村会の幹部から100万円の献金を受けていたことなどが判明。強気の弁明は色あせてしまった。

 そもそも法的責任と同義的責任はまったく別のもので、法的にはセーフでも同義的に許されず辞任に至った政治家の例は枚挙にいとまがない。
 100万円献金問題の本質は、公選法上の問題などではなく、伊藤知事が受け取ったカネに賄賂性があったか否かという点に存在する。
 市民感覚から言うと、県が多額の補助金を出している財団のトップが献金するということは、「謝礼」の意味が込められていたと見るほうが自然で、そこに法的な解釈が入り込む余地などない。
 県政トップとして、疑われるカネを受け取ったことがわかった時点で、潔く返金するなり謝罪するのが筋だったと思うが・・・。

九州電力
 gennpatu 039.jpg九州電力は、会長、社長の「往生際」の悪さが、会社全体を汚染している。
九電自らが設置した郷原信郎弁護士を委員長とする第3者委員会の中間報告には、当の九電が異を唱え、古川佐賀県知事の逃げ口上に辻褄を合わせる始末。
 メモの内容が表面化した直後、いったんは「メモの内容は異なるものではありません」とプレス向けの発表までしながら、第3者委員会の報告内容を変えろとまで言い出した。
 こんな会社の言い分を信じる国民は少ないだろう。

 「やらせメール」によって番組がもたらす効果を原子力村有利になるよう誘導したことは動かしようのない事実だ。九電の反社会的行為は断じて許されるものではなく、第3者委員会の最終報告を待つまでもなく、会長と社長の辞任時期が明確になっていなければならない。それは地域独占を許された公益企業として、当然の身の処し方ではなかったのか。

 しかし、松尾新吾九電会長は、世論誘導してまで原発を推進してきた責任を認めようとしないばかりか、いまだに「九州経済連合会」トップの座にも君臨している。権力にしがみつく姿勢には、財界トップリーダーとしての威厳は微塵も感じられない。
 松尾氏の言いなり状態である眞部利應社長は、すでに社内的にも社会的にも信用を失っている。
 ふたりのトップの「往生際」の悪さが、社内を間違った方向に導いているとしか言いようがない状況だ。
 
名こそ惜しけれ
 かつて作家の司馬遼太郎氏は、「名こそ惜しけれ」という武士道の本質をあらわす精神こそ、日本が世界に伍していくために必要なものであると説いた(新渡戸稲造氏が著した「武士道」が広く世界で読まれてきたことにも通じるものがあるが)。
 だが、日本の政治や経済に対する国際的な評価は下がる一方である。

 「名を惜しまぬ」政治家や経済人が増えすぎた。名を惜しまぬどころか、「往生際」の悪さで地域や国を滅ぼしかねない状況を、あの世の先人たちはどのように見ているだろう・・・。



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