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僭越ながら:論

  朝日新聞の「独善」

~原発・国民共犯説への反論~

2011年8月 2日 09:50

 この国をだめにした原因のひとつは、独善に陥った大手メディアの姿勢にあるのではないかと考えていたが、朝日新聞の記事を読んで、間違いではないと確信した。知らぬ間に「大半の国民」が原子力村の「共犯」呼ばわりされていたからだ。

「ニッポン前へ委員会」の提言と解説
朝日新聞 今月27日、川内原発関連の取材に向かう九州新幹線の車中でのこと。朝日新聞の朝刊1面を眺めていると「原子力臨調で国民的議論を」との見出しが飛び込んできた。同社が"中堅・若手の論客9人"(記事より)を集めて設立した『ニッポン前へ委員会』の提言で、次の3項目を掲げている。
 (1) 原子力政策を抜本的に見直すための『原子力臨調』の設置
 (2) 国会議員に科学的な専門知識を助言する『科学技術評価機関』の設置
 (3) 福島県に『低線量被曝社会研究所』を設立
 ずいぶん薄っぺらな提言内容なのだが、同紙3面の『ニッポン前へ委員会』委員氏による解説記事(写真。赤い傍線はHUNTERによる)はとりわけひどいものだった。冒頭部分には次のように記されている。

《福島原発事故の真の原因は何か。この問いに答えるのは容易ではない。だが少なくとも、我々の多くが原子力についての民主的な熟議を怠ってきたという事実は、認めなければなるまい。
 誤解を恐れずに言えば、この事態は「閉鎖的な専門家システム」と「大半の国民の無関心」の、いわば共犯関係によって生じたのである。そして今や、この国には巨大な相互不信が渦巻く。従って我々は、原発被災地の復興と同時に、科学技術と社会の、あるいは専門家と市民の間の、失われた信頼関係の再構築という難問にも、取り組む必要がある》。

国民が「共犯」への反論
 《誤解を恐れずに言えば》からあとに続く一文には、誤解の有無にかかわらず、到底賛同できるものではない。《閉鎖的な専門家システム》とは、原子力村と称される人々を指すと思われるが、《大半の国民》が、なぜ村人と《共犯関係》になるのだろう。
 委員氏の文章は、《福島原発事故の真の原因は何か》と書き起こしており、《我々の多くが原子力についての民主的な熟議を怠ってきた》と続く。そして《この事態は「閉鎖的な専門家システム」と「大半の国民の無関心」の、いわば共犯関係によって生じたのである》と断じているのであるが、《大半の国民の無関心》が《共犯関係》であるとする論拠は何も示されていない。逆に共犯関係を否定する材料ならいくらでも存在する。

 委員氏は、国民が無関心だったと言うが、《大半の国民》は、国や電力会社による「安全神話」を訝しがってはいたが、決して「無関心」だったわけではない。意図的に遠ざけられてきたと言うべきだろう。
 原発をめぐる議論から《大半の国民》を遠ざけた最大の原因は、原発建設にあたっての同意・不同意の権限を、原発立地自治体とその所属県にしか認めなかったところにある。そのことは、運転休止中の原発を再稼動させるかどうかですったもんだしている佐賀県玄海町や鹿児島県薩摩川内市、さらには同様に揺れる全国の原発を取り巻く事情を取材すれば容易にわかるはずだ。
 例えば、玄海原発から数百メートル先は佐賀県唐津市になるが、現在の国や九電の方針のままでは同市の市民に玄海原発再稼動を拒否する術さえない。
 電源3法交付金で懐柔した自治体に、原発を認めるか否かの判断をさせることは、まさに「国策」として行なわれてきたことで、関心を持つ、持たないに関わらず、立地自治体や所属県以外の国民の意見が、原発行政に反映されなかったことを忘れてはならない。
 多くの識者や市民が「反原発」あるいは「脱原発」を叫んできた事例も山ほどある。《大半の国民》を《無関心》と決め付けるのは、あまりに身勝手な解釈だろう。むしろ、原発に対する批判的な声を、少数意見として片付けてきたのは大手メディアではなかったのか。 

「共犯」は大手メディア
 この委員氏が書いた解説文の最大の問題点は、朝日新聞を含む大手メディアの責任について、一切言及していないことだ。これでは、大手メディアの逃げ道を作るための作為的な論としか思えない。

 原子力村とは、なにも原発推進派の政治家や役人、企業、学者だけで構成されているのではない。場合によっては、大手メディアもその中の重要な位置を占めてきた。
 一例を挙げるが、原子力発電の重要性や安全性を宣伝する印刷物を手がけている「電気新聞」の運営母体は、電力各社らを中心とする電気関連企業などで組織された「社団法人 日本電気協会」だ。
 同協会は、原発を推進する立場の団体でもあるのだが、法人会員には朝日新聞や読売新聞の大阪本社をはじめ、多くの新聞社、テレビ局が名を連ねている。原子力村との《共犯関係》とは、むしろこちらを指すべきではないのか。

 メディアも巻き込んだ構造があったからこそ、原発の啓発(つまりは安全神話の浸透)に莫大な広告費が使われ、大手メディアがその恩恵に浴することを可能としてきたのは事実だ。その反省に立った報道が、これまで在ったのだろうか。
 福島第一原発の事故発生以来、国や電力会社を袋叩きにしている朝日新聞をはじめとする大手メディアのなかに、自社がもらった原発啓発の広告宣伝費のトータルを公表した事例など皆無のはず。分かりきったことだが、電力会社が支払う広告費は電気料金、国の広報予算は税金を原資としている。つまり「国民」のカネということだ。
 
 大手メディアは、国や電力会社による原発の「安全神話」作りに加担してしてきたと言っても過言ではない。にもかかわらず、自らの責任を棚に上げて、国民を原子力村の「共犯」だと断じる。「盗人猛々しい」とはこういうことを言う。
 原子力村との共犯関係が、委員氏の言う《民主的な熟議》を怠らせたとするなら、共犯に位置づけられるべきは大手メディアであって、決して国民ではない。

新聞の矜持はどこへ
 解説文中の《この事態》とは、《原子力についての民主的な熟議を怠ってきた》事態を指すものと見られるが、そもそも《民主的な熟議》とはいかなるものか判然としない。 熟議するから民主的なのであって、非民主的な熟議などあるとは思えない。
 一見もっともらしい言葉を並べた解釈困難な文章は、えてして底の浅い内容を隠す目的が潜んでいるものだが、この解説文はその典型的なケースかもしれない。
 
 ジャーナリズムに与えられた使命は、原発行政のあり方を含め権力を監視するという役割を果たすことだ。そのうえで「論」を起こす義務もある。委員氏の解説文は、そうした点にはまったく触れずに自説を述べただけなのだが、提言の前提として書かれた文章がこのお粗末さでは、あとに続く提言内容のレベルも推して知るべし。行を費やして論じるまでもない内容だ。
 
 朝日新聞には、政治部や経済部の記者をはじめ、福島原発の実情を取材した記者、原子力行政の問題点を知り尽くした記者、再稼動問題で揺れる自治体の背景について記事を書いた記者など、さまざまな人材が揃っているはずだ。外部の識者など集めなくても、実体験を通じた冷静な原発問題への提言ができる記者があまたいるのは事実だ。社として論を起こすのなら、取材を通じて得た知識や材料を有効に使い、読者を唸らせるような内容のあるものを提示するべきで、それこそが新聞の矜持ではないのか。
 
 もちろん、そこに至るまでに社内の「熟議」が必要なのは言うまでもないが、どんな提言であろうと、現場を踏んだ記者たちが作った提言なら、国民を共犯扱いするようなお粗末なものは出てこないだろう。同紙に在籍する友人たちのためにも、それだけは断言しておきたい。
 論客、有識者とやらを集めて提言させる手法は、新聞社としては満足なのだろうが、空疎な記事を冷笑している読者が少なくないことを知るべきだ。
 
 なぜこうしたお粗末な提言や文章が掲載されるのか、それが分からなければ朝日新聞の独善的体質が改まることはないだろうし、部数減に歯止めをかけることもできないだろう。
 誤解を恐れるから言っておくが、本稿で指差した朝日新聞とは、こうした陳腐な企画を立てた同紙の上層部である。あしからず。

                                        



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