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僭越ながら:論

西日本新聞への警鐘
~九電広報となるなかれ~

2011年6月 2日 09:15

 新聞記者のすべてが「ジャーナリスト」であるとは露ほども考えていなかったが、記者としての誇りのかけらさえない記事には、いいかげんうんざりしてきた。
 特に九州電力の発表を垂れ流す地元紙の報道には世論操作の疑念がぬぐえず、看過できない。

福島第一原発の現実
 東京電力福島第一原子力発電所の事故とその後の経過は、原発の「安全神話」を崩壊させただけでなく、国と電力会社への信頼を根底から覆した。もはやどのような根拠を示されても「原発は安全」という話を信用する人は少ないだろう。
 「起きるはずがない」とされてきた事故が現実のものとなり、その処理をめぐっては情報の隠蔽を疑われる事態が続く。日替わりに新事実が明かされる始末で、同原発の1号機、2号機、3号機がメルトダウンを起こしていたことを公表したのは事故後2か月を経過してからだ。

 東京電力に限らず、原発事業者であるすべての電力会社の動向に注目が集まるなか、九電が福島第一原発の事故を過小評価するパンフレットを平気で配り続けていた事実からしても、"原発マフィア"の方針は何も変わっていないと見る方が妥当だ。 

パンフレット1  パンフレット2  パンフレット3

 この間、政府は原子力発電に対する今後のビジョンも提示せぬまま、地震発生の確率が高いことを理由に浜岡原発(静岡県)の停止を決めてしまった。しかし、原発の不安要因は地震だけではない。そのことは過去の事例でも明らかだったはずだが、首相のパフォーマンスが原発の実相に関する議論に蓋をする状況を招いてしまった。説明不足や情報隠しが続く限り、原発の方向性に結論を出すことは早計だ。
にもかかわらず、原発の運転継続をあおる報道を続ける真意はどこにあるのか。考えられることはひとつしかない。

九電広報となった西日本新聞
 現状における新聞の使命は、国や電力会社の発表を垂れ流すことではなく、丹念にその裏づけを取り、隠された真実を報じるところにあるはずだ。しかし、西日本新聞の九州電力・玄海原子力発電所をめぐる報道に関しては、九電広報紙としか言いようのない記事ばかりだ。

 その傾向が顕在化したのは、国が耐震基準見直しの必要性を認めたとの同紙の報道が出た直後からだ。
 数日後には、公表もされていない九電独自の耐震シミューレーションの存在と「安全」をアピールする記事を掲載。その後は、九電管内での電力不足、特に火力発電所の燃料原油が不足するとの九電側の話を何の検証もなしに書き続けている。

西日本新聞5月27日朝刊 滑稽なのは5月27日の朝刊で、火力発電用燃料は十分確保されているとする石油連盟会長の会見発言を1面で報じながら、同じ日の経済面ではその大半を使っていかに九州の電力供給が原発に頼っているかを大特集。ご丁寧に「代替燃料の追加困難」と大きな見出しまでつけており、整合性のない紙面作りには首をひねらざるを得ない。思わず、これが同じ日の同じ新聞かと日付を確認してしまった。(写真が西日本新聞5月27日朝刊の紙面)

西日本新聞6月1日朝刊 追い打ちをかけたのが翌日の朝刊で、再び紙面を大きく使って耐震性は大丈夫だとする九電側の話をこれでもかと書き連ねた。
 その後も九電側の意向に沿ったとしか思えない内容の記事を報じ続け、今月1日には1面で前日に九電が正式公表した耐震性試算結果を取り上げ、《玄海原発M8.1でも「安全」》とぶち上げた(写真は6月1日の西日本新聞朝刊)。ここまでくれば、何をかいわんや、である。
 
 ちなみに、九電が公表した耐震性試算については、朝日、読売をはじめ批判的な記事ばかりだった。

報道内容への反論
 原発の耐震設計においては、安全性が確保された設計を行うため、原発施設ごとに基準となる地震動の数値を設定しており、これを「基準地震動」と呼んでいる。
東京電力は昨年3月、国の耐震設計審査指針が改訂されたことを受け、基準地震動を180ガルから600ガルへと大幅に引き上げたが、福島の現実は、そうした「想定」が何の意味も持たなかったことを証明している。
 
 公表された九電独自の耐震性試算は、文字通り試しに計算した結果、つまり「想定」に過ぎない。自然が易々と人間の想定を超えることは、東日本大震災が実証済みだ。
 さらに言うなら、原発を襲うのは地震や津波だけではなく、人為的なミスやテロということもあり得るだろう。
 
 耐震基準の見直しは、東日本大震災による知見データを得たうえで、原子力安全委員会や経済産業省原子力安全・保安院が新たな指針を策定し、電力会社に「基準地震動」などの見直し指示を出してから本格的に動き出すことになるが、一連の作業が終了するまでには1年以上の時間を要する。
 わずかな期間で出された九電独自のシミュレーションなど、原発の安全にとって何の担保にもならないのだ。

 九電擁護の姿勢に貫かれた論調はご立派と言うしかないが(もちろんこれは皮肉を込めての評価)、原発に関する記事に限っては、権力の犬による報道が国や地域の未来を奪う可能性があることを警告しておきたい。とくに財界担当の記者が書いた記事は信用が置けないからだ。

世論操作への疑念
 たちが悪いのは、「電力不足=経済への悪影響」という構図を決め付け、社会不安を煽ることで原発を容認させようとする一部記者(あるいは会社?)の姿勢だ。
 見えてくるのは、九電と記者(あるいは会社幹部)との持ちつ持たれつの関係、つまり癒着の構図である。
 
 経過を見る限りでは、国の耐震基準見直し方針が確実となり、運転休止中の玄海原発2号機、3号機の運転再開に赤信号がともるのを恐れた九電側が、気心の知れた記者を使って事態打開を図っているとしか思えない。
 これが事実なら悪質な「世論操作」である。

求められる報道とは
 原発は、運転を停止したからといって万事が丸く収まる代物ではない。いったん事故が起きれば人の力では制御できない化け物となり、人命や地域の未来を奪う存在なのだ。
 今、この国の報道に求められているのは、一時の電力不足を云々することではなく、原発そのものを認めるか否かの判断材料を提供する記事であろう。
 
 かつて地方政界に深く食い込み、スクープ報道を連発した引退記者のことを思い出した。彼は、たしかに大物政治家の懐に飛び込むタイプだったが、どんな相手でも批判すべき時には厳しい記事を書き、引退に追い込むことさえあったという。
 「勝負する時の覚悟を持って取材対象とつき合った」。そう語ってくれた彼は、ほかならぬ西日本新聞のOBなのだが、残念ながら後輩の一部記者たちには、その"覚悟"はないらしい。
 
 報道機関の使命は市民サイドに立った「権力の番犬」として、政治や行政の間違いを正すことにある。
 一企業の犬に堕した記者が書いた記事は、もはや報道ではない。



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