嘘の情報を流すことを「大本営発表」という。大本営とは、旧帝国陸海軍の最高統帥機関である。先の大戦中、負けた戦を「勝った」と発表して国民を欺いたのは軍部。戦前への道をひた走る安倍晋三首相のもと、防衛省による大本営発表が甦った。
南スーダンに派遣されたPKO部隊の日報を隠し、大臣が「戦闘」を「衝突」と強弁するなど真相の隠蔽に走る防衛省。国会関係者など一部に公表された同省の資料から、「戦闘」の実態を明らかにする。
■公表された日報とモーニングレポート
内戦終了後の南スーダンに、自衛隊の施設部隊が派遣されたのは2012年。以来、首都・ジュバに宿営地を設け、約350名の隊員がPKO活動に従事している。現地部隊が記録しているのは「南スーダン派遣施設隊 日々報告」(以下「日報」)。これとは別に、上級部隊である中央即応集団司令部が、日報等を基に「モーニングレポート」を作成している。
日報を巡っては昨年10月、日本人ジャーナリストが、防衛省に対し同年7月7日から12日までの日報を情報公開請求。同省は、12月2日に“廃棄による不存在”を理由とする非開示決定を出した後、河野太郎自民党衆院議員の再調査要請で、同月26日に日報の存在を確認していたという。防衛省は今年2月になって、見つかった日報3日分とモーニングレポートなどの資料を河野議員と防衛記者会に公表している。
■戦闘の実態
事実上隠蔽されていた日報やモーニングレポートは、肝心なところが黒塗り非開示。それでも、オープンになった記述から、大規模な「戦闘」が行われていたことが分かる。下は、昨年7月10日付日報の記述だ。(以下、グリーンの囲みはHUNTER編集部。SPLAはスーダン人民解放軍=大統領派、SPLA-iOは副大統領派とされるスーダン人民解放運動の反体制派)
日報の記述によれば、大統領派と副大統領派との間に起きたのは「戦闘」。11日、12日の日報にも、「戦闘」が何度も出てくる。「巻き込まれに注意が必要」とあるが、「戦闘に巻き込まれる」という意味だ。POCとは文民保護区、USハウスは国連の施設で、こうした地域でも「戦闘」が確認されていた。首都ジュバの危険な状況がうかがい知れる。両派の衝突は7月7日から起きていた模様で、7月11日付のモーニングリポートには、7日の出来事についての記述がある。これが、大規模な戦闘のきっかけとなっていた(下、参照)。
7月8日夕に起きた戦闘がいかに激しかったは、日報≪情勢報告≫のページの記述で明らかになる(下、参照)。
この時点で、大統領派約90名、副大統領派約37名、民間人約25名が死亡するという事態。モーニングレポートには、この時の状況について、さらに詳述した箇所がある(下、参照)。
大統領府付近で「黒煙」。「攻撃ヘリや戦車の動き」とあり、銃撃戦の域を超えていたことは確か。この結果どうなったかは、モーニングレポートの記述に明らかだ。「IMF等の国際機関は職員の退避を開始。各国大使館は職員の退避を検討中」――確かに、そう書いてある(下、参照)。
次は、統合幕僚監部の資料。7月7日以降に起きた一連の「戦闘」によって、どのような状況となっていたかが理解できる。「JICAチャーター便により、在留邦人約90名が出国」「C-130Hにより、大使館員4名をジブチに輸送」――。自衛隊員以外を国外に退去させなければならないほど、事態が緊迫していたということだ。
■旧軍と同じ稲田氏の発想
自衛隊のPKO部隊が駐留する南スーダンの首都ジュバで起きた「戦闘」について国会で質問を受けた稲田朋美防衛相は、「人を殺傷し、物を破壊する行為」はあったが「国際的な武力紛争の一環」ではなく、「武力衝突であって戦闘ではない」から「法的意味における戦闘行為ではない」とする“たてまえ論”を繰り返した。
上空に攻撃ヘリ、地上に戦車。砲弾が飛び交い、何百人もの人が死に、邦人はもちろん大使館員まで国外に退去しなければならない事態を招いたのが「戦闘ではなく武力衝突」と強弁する姿は、「撤退」を「転進」と言い換えた旧軍の参謀そのもの。国民を騙し続けた大本営=軍部の発想だ。昭和の時代がそうであったように、大本営発表の嘘は、いずれ暴かれる。靖国に行く時間があるのなら、防衛大臣として、もう少し歴史を勉強された方が良い。
(以下、次稿)