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巷(ちまた)に流行る3つの「ゼロ」

2014年1月28日 07:35

イメージ 「此頃(このごろ)都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨(にせりんじ)」で始まる二条河原落書は、鎌倉幕府滅亡直後の日本の流行を風刺したものとして名高い。それにならって「この頃日本に流行るもの」を考えてみると、最近は「ゼロ」を冠する映画や本が目立っている。
 「ゼロ・グラビティ」「永遠の0(ゼロ)」そして「ゼロ―なにもない自分に小さなイチを足していく」―これも何か世相を反映しているのだろうか。そんなことを思いながら3作品を見比べてみた。すると、日本人が「ゼロ」に馳せる思いの共通点が何となく見えてきた。

「ゼロ・グラビティ」
ゼロ・グラビティ―アルフォンソ・キュアロン監督のハリウッド映画。
 ストーリーとしては、宇宙作業初参加の女優サンドラ・ブロック演じる主人公が乗る宇宙船が、宇宙ゴミの衝突で破壊され、俳優ジョージ・クルーニー演じる指揮官と一緒に宇宙へ投げ出されるところから始まる。幾多の危機を乗り越えながら最後は地球へ・・・という流れだ。

 実はこの映画、原題は「GRAVITY」であり、「ゼロ」はついていない。邦題にするとき日本側が付けたものと思われる。たしかに作中の大半はゼロ・グラビティ(無重力)空間で展開される。しかし、この「ゼロ」があるのとないのとでは、作品に対する見方がまったく変わってくる。ここでの「ゼロ」は文字通り「無」を表す。宇宙の広大さと地球の美しさに目をひかれる一方で、宇宙空間での「無」重力状態は「死」を予感させる。

 主人公が1人地球に生還したとき、全身で地球の重力を噛みしめる。最後は大地に立って新たな「生」への旅立ちを予感させ、「有重力=生」に直結する。つまり、ここでの「ゼロ」は「生と死の境界線」とも言い換えることができるだろう。「ゼロ」が無いほうが、作品の本質(=何が何でも生きることの大切さ)を突いているのだ。

「ゼロ―なにもない自分に小さなイチを足していく」 

―元ライブドア社長の堀江貴文氏による自叙伝。
 平成の時代が生んだ「ホリエモン」というモンスターが世間を騒がせたライブドア事件での刑期を終え、まっさらな「堀江貴文」に戻ったことを伝えている。とくに幼少期の話は、これまで自分の口からはほとんど語られていなかった。ある意味で自身の弱さもすべてさらけだすことで「再出発点に戻った=ゼロ地点に立った」ことを表明している。

 堀江氏にとっての「ゼロ」とは余分なものがそぎ落とされた今の状態を指しているようだが、この「ゼロ」には2つの意味があると思う。「ホリエモン」でも「堀江貴文」でも一貫しているのは「働きたい」という気持ちだ。働くことで小さな「イチ」を足してきた堀江氏が逮捕・収監によって「ゼロ」になり、「働きたい」という強烈な気持ちが湧いてきた瞬間、「ゼロ」が“再出発点”を指すようになった。

 もう1つ、これは個人的な見方だが、「生と死の境目」としての「ゼロ」があるのではないか。そもそも「堀江貴文」は働くことで初めて「生」を感じられ、逆に働かなければ「死」んでしまう。これは堀江氏の行動原理として極めて重要な部分だろう。

 この2つの作品を見る限り、「ゼロ=生と死の境界線」という共通項がどうやらあるように見える。ここから本題に移る。

「永遠の0(ゼロ)」
永遠の0―作家・百田尚樹氏の小説が原作、山崎貴氏が監督した邦画。
 まさに賛否両論で、賛成派はおおむね「若い人が死んでしまう戦争の無意味さを描いた」「国のために『死』を選ぶのが当たり前の時代、家族のために『生』を求める姿に感動した」と評する。一方の反対派は「特攻隊・戦争を美談・美化している」点に違和感を抱いているようだ。

 個人的には、必ずしも単純に特攻隊を美談にしているとは思えなかった。死ぬのが当たり前の風潮で、主人公が1人「絶対に生き残れ」と同僚に促していた。そして主人公の人柄や本心を直接知らなかった元同僚らは「彼は臆病だった」と執拗に評し、彼を知るごく一部の人間が 当時は非常識だった考え方の本当の意味を理解していたことも印象的だった。

 百田氏は主人公の生き様と重ね合わせ、「強烈な生への執着」と「死ぬだけの戦争は無意味だ」というメッセージを発していると思われる。その点はきちんと評価すべきだろう。そして「ゼロ」戦に乗るかどうかで「生と死の境界線」が生まれたのだ。

 ただ気になるのは、そんな百田氏の今の立場である。安倍首相の肝煎りでNHK経営委員になるなど極めて安倍政権に近しい。そんな安倍政権は靖国参拝で諸外国のひんしゅくを買い、特定秘密保護法案を強行採決し、辺野古移設問題で名護市民にノーを突きつけられ、集団的自衛権の(勝手な)解釈で積極的平和主義(という名の軍国化)を果たそうとしている。

 NHKも問題だらけだ。今月25日に籾井勝人氏が新会長就任会見で、「旧日本軍の慰安婦問題のようなことは戦争地域のどの国にもあった」などと暴言を吐く始末。もはや「みなさまのNHK」は「あべさまのNHK」へと堕してしまった。
 百田氏は「永遠の0」は「戦争を美化したわけではない」と反論している。それならば安倍政権との関係をいったん「ゼロ」にする勇気を持ってほしいものだ。

日本人の「ゼロ」への憧憬
 これまで3作品の「ゼロ」について考えてみた。本稿での結論は「ゼロ=生と死の境界線」。そして現在、東京都知事選で細川・小泉連合の「原発ゼロ」をめぐり攻防戦が繰り広げられている。「原発ゼロ」が日本国民のこれからの「生と死」に直結する境界線だ。
 いったん「ゼロ」にして世の中を考え直そう―そんな現代日本人の「ゼロ」へのある種の憧憬が、これらの作品の人気具合に反映されているのではないだろうか。

<嵯峨 照雄>



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